てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

『その後の不自由 「嵐」のあとを生きる人たち』

とある読書会の備忘録です。

 

 

 

どんな本?

暴力などトラウマティックな事件があった“その後”も、専門家がやって来て去って行った“その後”も、当事者たちの生は続く。
しかし彼らはなぜ「日常」そのものにつまずいてしまうのか。なぜ援助者を振り回してしまうのか。
そんな「不思議な人たち」の生態を、薬物依存の当事者が身を削って書き記した当事者研究の最前線!
普通の生活の“有り難さ”に気づく1冊。

amazonの作品紹介より)

 

元当事者の援助者が書かれた本ということで、完全なる当事者目線でもなく完全なる援助者の視点でもない、著者だけの経験ではなくたくさんの経験者たちの体験に基づかれた一歩メタな視点と、経験者だからこそわかる内側からの視点と絶妙なバランスの本でした。

 

アディクションを治療対象とみる専門家のあいだでは、アルコールや薬といった嗜癖対象をやめて社会に復帰するのが回復と考えるのが一般的です。具体的には「就労による経済的自立」です。女性の場合は家庭内の役割(妻・母・嫁・娘など)に復帰するといったイメージが狩猟です。

しかし、この本に登場する人たちの「よくなること=回復」は、少し違うように感じられます。(227)

  

自分を真ん中にして考える

回復というのは、他人を優先していたことが「自分を真ん中にして考える」ことへと変わっていくことです。(p.18)

 

著者も「境界性パーソナリティ障害の人は特にそう」と書かれてますが、本当に。

これまで他者のためにがんばって人にとって、他者中心から自分中心への転換は、天動説から地動説への転換ぐらいの大転換かも。

 

 

グチを話す相手を選ぶ

悪口を言っていると勘違いしないで、グチとして聞いてくれる 相手であることが大切(p.106(※下線箇所は、本では傍点))

 

「相談はなぜ難しいのか」問題について、「劇的なものしか相談しちゃいけないと思っている」ことや「閉じられたグチ」について指摘したあと、「正しいグチの話し方」について。

「グチなんだけどね‥‥‥」と前置きすることの有効性とともに、「話す相手を選ぶ」ことときっぱり言い切ってるところが印象的でした。

たしかに、グチをグチとして受け止められないタイプの人に話すんは危険だし、「閉じられたグチ」の説で指摘されていることと重なるかもしれませんが、家族のグチなんかはときに自分も利害に関わることだったりして、グチとして受け止めるのが難しいこともある。(家族に対して、「そういうグチは友達に言ってくれよ」と思うこともあります。)

また、哲学カフェでも、一緒に考えるためのツッコミや反論を、「あの人は自分のことが嫌いなんだ」と捉えられると、とたんに難しくなる場面があるなと思い出したり。

 

 

援助者に何をしてもらうと助かるか

こういう状態にある依存症の人たちというのは、これまで「身体の手当てをされた経験が一度もない」という人が多い(p.40) 

 

これは、この箇所以外にもっと適切な引用箇所があるかもしれない。

(引用中の引用は、中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』からの引用?→要確認)

 

ただ、「生理のあるカラダとつきあう術」に一章(一節ではなく!)を割くぐらい、身体のケアを重視しているのが印象的。

かつ自分や周囲の経験からもそうだなぁと共感。

誰かが精神的にすごく疲れてるとき、悩みをきくより、お茶をいれたげて一緒に飲むほうが有効なことってけっこうあるよなって。

 

たとえばオーバードースによる入院を何回もしていて、大半の医療者が「勝手にしなさい」と投げてしまったときに、ある看護師さんが「熱があるみたいね、水枕をつくりましょうか」と言ってくれたとか。暴れてしまって「好きにしたら」と言われているときに、実は三日ぐらいご飯を食べてなくて、でもどうしていいかわからないときに、「おかゆにしましょうか」と言ってくれたとか。毎回毎回手首を切って「もういい加減にしなさいよ」って看護師に言われたけれど、医師が何も言わずにきれいに縫合してくれたとか。(40)

 

相手が試すような行動をしているときに、「死ぬな!」と言ってやめさせようとするのは、ヒモの両端をお互いに引っ張り合っているようなものです。でも身体の手当をする行為によって、このパワーゲームから別のところへ行ける。(41)

 

 

トラウマは、深く話しても楽にはならないし、解決もしない。(p.231) 

 

とともに、覚えておきたい。

 

『その後の不自由 「嵐」のあとを生きる人たち』

とある読書会の備忘録です。

 

 

 

どんな本?

暴力などトラウマティックな事件があった“その後”も、専門家がやって来て去って行った“その後”も、当事者たちの生は続く。
しかし彼らはなぜ「日常」そのものにつまずいてしまうのか。なぜ援助者を振り回してしまうのか。
そんな「不思議な人たち」の生態を、薬物依存の当事者が身を削って書き記した当事者研究の最前線!
普通の生活の“有り難さ”に気づく1冊。

amazonの作品紹介より)

 

元当事者の援助者が書かれた本ということで、完全なる当事者目線でもなく完全なる援助者の視点でもない、著者だけの経験ではなくたくさんの経験者たちの体験に基づかれた一歩メタな視点と、経験者だからこそわかる内側からの視点と絶妙なバランスの本でした。

 

アディクションを治療対象とみる専門家のあいだでは、アルコールや薬といった嗜癖対象をやめて社会に復帰するのが回復と考えるのが一般的です。具体的には「就労による経済的自立」です。女性の場合は家庭内の役割(妻・母・嫁・娘など)に復帰するといったイメージが狩猟です。

しかし、この本に登場する人たちの「よくなること=回復」は、少し違うように感じられます。(227)

  

自分を真ん中にして考える

回復というのは、他人を優先していたことが「自分を真ん中にして考える」ことへと変わっていくことです。(p.18)

 

著者も「境界性パーソナリティ障害の人は特にそう」と書かれてますが、本当に。

これまで他者のためにがんばって人にとって、他者中心から自分中心への転換は、天動説から地動説への転換ぐらいの大転換かも。

 

 

グチを話す相手を選ぶ

悪口を言っていると勘違いしないで、グチとして聞いてくれる 相手であることが大切(p.106(※下線箇所は、本では傍点))

 

「相談はなぜ難しいのか」問題について、「劇的なものしか相談しちゃいけないと思っている」ことや「閉じられたグチ」について指摘したあと、「正しいグチの話し方」について。

「グチなんだけどね‥‥‥」と前置きすることの有効性とともに、「話す相手を選ぶ」ことときっぱり言い切ってるところが印象的でした。

たしかに、グチをグチとして受け止められないタイプの人に話すんは危険だし、「閉じられたグチ」の説で指摘されていることと重なるかもしれませんが、家族のグチなんかはときに自分も利害に関わることだったりして、グチとして受け止めるのが難しいこともある。(家族に対して、「そういうグチは友達に言ってくれよ」と思うこともあります。)

また、哲学カフェでも、一緒に考えるためのツッコミや反論を、「あの人は自分のことが嫌いなんだ」と捉えられると、とたんに難しくなる場面があるなと思い出したり。

 

 

援助者に何をしてもらうと助かるか

こういう状態にある依存症の人たちというのは、これまで「身体の手当てをされた経験が一度もない」という人が多い(p.40) 

 

これは、この箇所以外にもっと適切な引用箇所があるかもしれない。

(引用中の引用は、中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』からの引用?→要確認)

 

ただ、「生理のあるカラダとつきあう術」に一章(一節ではなく!)を割くぐらい、身体のケアを重視しているのが印象的。

かつ自分や周囲の経験からもそうだなぁと共感。

誰かが精神的にすごく疲れてるとき、悩みをきくより、お茶をいれたげて一緒に飲むほうが有効なことってけっこうあるよなって。

 

たとえばオーバードースによる入院を何回もしていて、大半の医療者が「勝手にしなさい」と投げてしまったときに、ある看護師さんが「熱があるみたいね、水枕をつくりましょうか」と言ってくれたとか。暴れてしまって「好きにしたら」と言われているときに、実は三日ぐらいご飯を食べてなくて、でもどうしていいかわからないときに、「おかゆにしましょうか」と言ってくれたとか。毎回毎回手首を切って「もういい加減にしなさいよ」って看護師に言われたけれど、医師が何も言わずにきれいに縫合してくれたとか。(40)

 

相手が試すような行動をしているときに、「死ぬな!」と言ってやめさせようとするのは、ヒモの両端をお互いに引っ張り合っているようなものです。でも身体の手当をする行為によって、このパワーゲームから別のところへ行ける。(41)

 

 

トラウマは、深く話しても楽にはならないし、解決もしない。(p.231) 

 

とともに、覚えておきたい。

 

「これってムダ?」@Ziba Platform

9月26日(土)は、津山市のZiba Platformにて哲学カフェ。

先月まではオンライン開催でしたが、今回初めて、オフラインとオンラインの混合哲学カフェを試みてみました。

 

会場の参加者は少なめの3名+進行役。

オンラインからは、5名の方が参加。

直前にキャンセルなどもあってこの人数に落ち着きましたが、結果的に初めての試みとしてはちょうどいい人数だったかも。

 

ちゃんと会議用マイクを用意して事前に主催者の方と実験して臨んだものの、やはりやってみないとわからないことはあるものですね。

 

はじまってすぐ「あっ」と思ったのは、オンライン参加の方の音量がまちまちなこと。

オンライン参加の場合は、発言者ごとに手元のPCやスマホで音量調節ができるわけですが、うっかり会場の会議用マイクを手の届かないところに設置していたので、最初はこまめな音量調整ができず‥‥‥。

途中でマイクの位置を私から手の届くところに変更してもらいました。

 

マイクを手元に置くために有線からbluetoothに切り替えようとしたけれど、なぜか途切れてしまったり、ごちゃごちゃしてるうちに会場を写すカメラの方向が変わってしまったり‥‥‥。

 

もうひとつの反省点は、チャットをどうするか打ち合わせ不足でした。

会場の大きなディスプレイにチャットも表示させるとオンライン参加のお顔が小さくなってしまうし、チャットのフォローをスタッフの方にお願いするのか進行の私がするのか、確認不足でした。

音声トラブルがあった際には絶対必要なので、ちゃんと事前に確認しておくべきでした。

 

とはいえ、バタバタしたのは前半の一時だけで、マイクの設置場所を変えてからは、オンラインと会場とのタイムラグなどもなく、予想以上にスムーズにいったかなと思います。

オンラインが苦手な人もオンラインじゃないと参加できない人も参加できるの、いいですね!

あと当日いいそびれたけれど、今回オンライン参加の方のなかにタバコを吸いながら参加してた方がいらっしゃって、それもいいなとおもいました。

オンライン派とオフライン派、禁煙家と愛煙家の分断はなくせるんだ!と手応えを感じました。

 

そして、内容も、おもしろかった!

いや、まぁ、いつもおもしろくなるようにがんばってるので、たいがいいつもおもしろいんですが、今回は、具体例(経営や政治のコスト、「自宅での夫の動きにムダが多い」、「仕事をはじめるまえにグズグズしちゃう」、試行錯誤すること、橋の装飾、芸術など)も出つつ、わりと抽象的な次元で議論をがっつり楽しめたなという印象があります。

誰かの体験談を味わうように聴く、そういう哲学カフェも大好きだけど、今回は、それぞれの体験を「例」として機能させ、根本的な問いをめぐって思考をたどる場面が多かった。

音声確認がてら、テーマ「これってムダ」について話してもらった最初の1周から参加者の考え方のちがいが見えたからかな。

その最初に見えたちがいとは、「ムダなことはちゃんとムダって言いたい」派と、「これまでの人生でムダなことは1つもなかった」派のちがい。

そこから、

  • そもそもムダなことはあるのかないのか?
  • ムダとは?不必要なこと?非効率的なこと?
  • ムダは悪いこと?

‥‥‥と少しずと問いを展開しながら、互いの考えのちがいがどこにあるのか確認し合いました。

なかでも、前半の松川的ハイライトシーンをあげると、「ムダも必要」という考えをきいたときの、「ムダはないほうがよい。なぜなら、ムダとは不必要なもののことだから」派の驚きっぷりかなぁ。

いつも冷静な方が、ほんとに心の底からびっくりしていて戸惑いながらも、同時に「自分には全くない考えだから、聞きたい」という姿勢が伝わってきて、ワクワクしました。

プラトンの「哲学は驚きからはじまる」という言葉にぴったりな一幕。

また、その「ムダも必要」って言ったのが、最初に「仕事をはじめる前にグズグズしちゃう」って言ってた人なもんだから、グズグズ同士であるわたしも、その「ムダも必要」を言い訳じゃなく説得的に語れるのかどうか、気になる気になる。

他の「ムダも必要」派からの応援もあって「遊びやスキマ、行間は必要」説が出てきます。

芸術を例に「文化はムダでできているといっても過言ではない」という言葉も。

 

さらに後半。

残り45分ほどのところでZibaさんのご提案でちょっと休憩しながら、「前半である程度がっつり話しちゃったし、後半話すことあるかな〜?間延びしちゃわないかな〜?」とやや心配したのですが、前半とは雰囲気が一変。

がっつり命の問題に向き合うことに。

延命治療を例に、「物についてはその目的によってムダかどうか判断されるけど、人の場合は?」という問いが投げかけられます。

また、「“延命治療は不必要”というのは違和感ないけれど、“延命治療はムダ”というのは抵抗がある。なぜだろう?」という疑問も。

ここで、わたくし、みなさんとうーんと考え込むなかでふと思いついた「“不必要”は本人の視点だけど、“ムダ”は第三者の視点だからでは?」と仮説を投げかけてみる。

(松川の進行する対話に参加したことのご存知のとおり、松川は進行しながらいち参加者としても発言することがけっこうあります。たいがい、他の参加者の発言のほうがおもしろいので、このブログでわざわざ触れることは少ないけど。)

その仮説を、他のみなさんも相模原事件の例なども出しながら、さらに展開してくれました。

 

さらにあと10分というところで、グズグズ同士の「ムダも必要」派のKさんから「それを“ムダ”と呼ぶのはなぜか?」という問いかけ。

それぞれがその問いに答えながら感想をシェアして終了。

前半と後半を接続するようなコメントがそれぞれから出てきます。

わたしも、「今後、夫が家事するのをみて『ムダな動きが多いな〜』と思っても、第3者として生暖かく見守ろう!」という教訓を得ました。

 

終わってふりかえってみると、これ、録音して書き起こしたら、ほとんどカットせずに読み物としても楽しめるぐらいムダのない対話だったのでは???

読み物としては「このやりとり必要?」「非効率的だなぁ」と思えるようなやりとりも、対話に参加してる人にとってはムダではない、その試行錯誤のなかで学ぶことがあったりするけれど、それと第3者が読んでおもしろいかはまた別の話。

でも、今回にかぎってはマイクの位置を調整してバタバタした時間以外は、第三者が読んでも読み応えありそうな対話だった気がします。

といいつつ、録音なんかしてないので(笑)、やっぱり対話をフルに味わえるのは参加した人だけの特権です。

 

 

ご参加くださったみなさん、Ziba Platformのみなさん、ありがとうございました。

 

次回は11月21日(土)の開催予定。

テーマなど詳細決まりましたら、お知らせいたします。