てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

哲学は現実を動かす〜「てつがく対話で男女共同参画」の後日談〜

昨年、「てつがく対話で男女共同参画」企画でお世話になった愛知県犬山市で活動する犬てつさんより、うれしいニュース。

「ずるい?」をテーマに「中学の制服、ズボンが履けるのは男子だけってずるくない?」「いやいや、普段、スカートかズボンか選べる女子のほうがずるいよ!」と制服論争が展開した子どもグループの対話。

それに参加してた子が議員さんに問いかけ、制服のスカートとズボンが選べるようになったそうな。*1
 
男女共同参画って大事だけど、実際には難しいよね」なんて言ってた大人たちは、びっくりしてるかな。
犬山市に限らず、他の地域でも男女共同参画推進のメンバーから「理想だけど難しいよねという声を聞くことは多い。
男女共同参画を実現するために日々がんばってるからこそ、その難しさを感じることも多いのだろう。
けど、子どもたちをみていると、大人が考えるよりずっとシンプルなことなのかもしれないとも思う。
 LGBTのことだって、打ち合わせで大人からは「小学生には難しくない?」なんて声が出てたけど、子どもたちはそういう人がいることをごく当たり前のこととして話してたしね。
あの日、大人グループの対話で出たように、「自分を縛っているのは自分自身かもしれない」という側面は侮れないなぁ。
 
哲学は机上の空論や屁理屈じゃない。
現実を動かしうる実践であることを身を以て証明してくれた犬てつの子どもたち。

彼らの哲学対話の記録が、7月末ごろ書籍になります。(わたしも、ちょこっと登場します。)

子どもたちの実践から、わたしたちも学ばねば!

 

 

 制服が変わるきっかけになった(!?)「てつがく対話で男女共同参画」のふりかえりはこちら。

matsukawaeri.hatenablog.com

 

 

犬てつのブログもどうぞ。

inutetsu.exblog.jp

 

“てつがくやさん”の危うさ

いろんな方がfacebookでシェアしてくださったこちらの批判記事、

 

asanotakao.hatenablog.com

 

批判されてる内田樹さんの書評もあわせて読みました。

 

 責任ある言論人として内田氏に必要だったのは、「何も知らない」ゆえに書けないないのであれば書評の依頼を断ることでした。*1

 

これって、まさに、わたしが“てつがくやさん”の危うさとして感じていることだ。

 

断ることができなければ、パレーシアテース(真実を語る者)としての哲学者としての資格を失ってしまう。
だから、生活のために哲学する、あるいは哲学以外のなにかのために哲学するということは、哲学そのものを危うくしてしまう。
ここが“てつがくやさん”の危うさだ
ちょうど、そういうことを今月末(6月27日)の「お金をもらって哲学するとは?」なぞらじスペシャルライヴで言葉にできるといいな、と考えていたところだった。
 
でも、もしこれが内田さんなりの、「俺にこの書評を依頼するなんておかしいでしょ」というメディア批判だったとしたら?
これが内田さんなりのパレーシア(真実を語ること)かもしれない。
 
‥‥‥とも考えてみたけれど、だとしてもやっぱり他者(著者をはじめこの詩集に関わった人たち)にへの配慮を欠きすぎていることは否めない、よなぁ。残念だけど。
 
その危険性と自分も隣り合わせなのだと自戒を込めて。
 

*1:内田樹氏によるホ・ヨンソン詩集『海女たち』の書評に異議を表明します - ASANOT BLOG / アサノタカオの日誌

「オンライン哲学対話ってどう?」カフェフィロもやもやトークwith アーダコーダ

昨日は、こちらのトークベイベントでした。

 

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まさかの、銭湯の話題ではじまりパンツの話で終わるという謎展開。

だから、哲学対話っておもしろい!

ハタノさんの「オンライン銭湯」と称して、みんなで自宅のお風呂にはいって話すという企画は、オンラインでいかに体験を共有するかという意味でも興味深かったし、最後は「裸で話せるか」というのがメタファーとしても利いてのこちら。

 

自分でもはいてるつもりのないパンツがあった!(by 中川雅道/松川メモより)

 

哲学カフェで、立場や肩書き、見た目からくる社会的な属性をいかに脱げるか。

これは、わたしが哲学対話の実践のなかでずっと気にかけてきたことなのですが、リアル哲学カフェでは、どうしても脱げないものがある。

本人にそのつもりがなくても、無意識に年齢や性別から発言のしやすさに影響を与えてしまうことがある。

チャットのコメントで参加者にご指摘いただいたとおり、なめられているほうは「なめられてるな」と気づきやすいけど、威圧感を与えてるほうはそのことに気づきにくい(だって、本人には言いにくいもん)という不均衡さ。

その脱げないものがあるなかでいかに対等に話せるか、というところがリアル哲学カフェのチャレンジングなおもしろさだったりすると思うのですが、

オンラインの哲学カフェでは、そうした不均衡さがかなり和らぐ気がするし、工夫の仕方によっては完全に脱げるかもしれない。

 

そのあたりが、松川的な一番のハイライトとなりました。

 

ほかにも、オンラインとオフラインのちがい、オンライン哲学カフェならではの可能性と限界、参加感の謎、対話のなかでのケアとは?、結婚や夫の転勤で知り合いの全くいない土地で暮らすことになった妻にとって哲学カフェがいかにありがたい存在か、寝転びながら哲学カフェしてみたい!などなど、今後につながるヒントがいろいろ。

あと、今回の、ゲストのトークを聞きながら、参加者(リスナー?)のみなさんにコメントを投稿してもらうスタイル、「チャットのコメントが多すぎて追いきれないかも」という声もありましたが、わたしには合ってるみたい。

対話中も全部目をとおして、ヒントをいただいておりました。

チャットのなかでも、もう一つの対話が繰り広げられてるような感じも、おもしろかったです。

 

月末のなぞらじスペシャルライブも似たようなスタイルでやるので、楽しみです。

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