てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

オンラインで「どこからどこまで自粛すべき?」@Ziba Platform

昨日5月23日(土)は、Ziba Platform主催でオンライン哲学カフェをお試し開催。

 

今回は、Zibaさんにとっても初めてのzoomを使用したイベントということで、これまでZibaさんでの哲学カフェに参加してくださった方のみにご案内し、スタッフの方も合わせて7名の方にご参加いただきました。

オンライン哲学カフェは2回目ですが、主催者・参加者がかわると、また全然ちがいますね。

5月10日の岡山大学の医療者向け哲学カフェはzoom慣れしてる方が多かったけれど、今回はあまり慣れてない方もいたので、Zibaの方が事前に参加者の方と接続確認などもしてくださいました。

 

テーマは、「どこからどこまで自粛すべき?」。

他に1月ごろから用意してたテーマもあったんですが、オンラインに変わったし、テーマも変えようということになりました。

(次回7月も、オリンピックに合わせたテーマを考えてたけど、変更することになりそう)

 

最初に、音声確認がてら、①よんでほしい名前、②自粛してること/してないこと、を一人ずつきいてみる。

日頃から、ツーリングや飲み会など外に出て楽しむことが多かった方は、本当にガラリと生活が変わったんだな〜と感じました。

その一方で、生活の潤いだったイベントがなくなったり、スーパーへ買い物に行く回数を控えるようになったりはしたけれど、普段からインドア派だったりテレワークだったりして、そんなに大きく生活が変わった気はしないという方も。

まずは、両者のギャップの大きさを感じました。

 

また、みなさんの話を聞いていると、新型コロナ・ウィルスの影響でしなくなったこと、できなくなったことだけでなく、新たに始めたこともけっこうあるな、と。

zoomの使用もその一つですが、消毒や手洗いの徹底と周知、布マスクの着用のほか、飲み会がなくなって奥さんと蛍を見に行くようになったという方、家族で畑仕事をするようになったという方も。

 

そんな話をきいていると、「自粛」という概念では狭すぎる気がする。

「自粛」にも通じるけれど、その奥にあるもっと根源的な問いで、いま考えるのによりふさわしい問いがあるんじゃないか。

そんな気がしてきていくつか提案させていただいたところ、「人はやる/やらないをどうやって判断してるんだろう?」というポイントに乗ってくださった方がいて、後半はこの問いを中心に進めました。

 

周りの人にどうみられるだろうという「周囲の目」や空気。

自分も感染し誰かを感染させてしまうかもしれないという恐怖。

 

 

「バイクで走ってるぶんには感染のリスクはそう高くないと思うけど、集団で走ってると周りの人から『やっぱりバイク乗りは何も考えてない』と思われるんじゃないか」

「他より早い時期からお店の消毒を徹底してはいたけれど、道行く人に『大げさ』と思われてないかと、恥ずかしい気も」

「最初は布のマスクをつけるのに抵抗があったけど、周りの人が普通につけるようになったから、自分も抵抗なくつけられるようになった」

 

こうした「やる/やらないの間(はざま)」のエピソードについて詳しく聞くうちに、2つほど、興味深いポイントが浮かび上がってきました。

 

ひとつは、「周りの目を気にすること」と「周囲の人に配慮すること」との違いと微妙な関係。

自分が周りの目を気にしてそうしているのか、周囲の人に配慮してそうしているのか、と問うてみると、「周りの目を気にしてそうしてることが多いけど、周りへの思いやりから自分で判断してできることが増えるといいなぁ」という声も。

たしかに、何もかも自分の判断で心から納得して周囲の人への思いやりある行動をとれたら、気持ちいいだろうなぁ。

ああ、でも、今回のような、なにもかもが不確かな状況で、自分で判断してって、本当に難しいですよねぇ。

そして、これを書いているいま改めて、今回の状況は、周囲の人に配慮しようとすると、周りの目を気にすることが分けにくいこともある気もしてきました。

だって、何をどこまで自粛すべきかも、消毒や手洗いをどこまで徹底すべきかも、人によってけっこう感覚がちがうから、自分が平気なことでも気にする人は気にするし、その逆もある。となると、、周囲の人に配慮しようとしたら、自然と周りの目(他者の感覚や判断)も気にすることになりそうな‥‥‥。

 

もうひとつ、今回の対話のなかでの大きな発見が、「やる/やらない」だけでなく、それに対する説明が重要になっているのではということ。

契機となったのは、対話の終盤15分あたりで出てきた、次のような指摘でした。

 

前は、掃除や消毒なんて影で見えないようにやることで、わざわざお客さんに『やってますよ』なんて言うことはなかった。けど、いまはちがう。たんに消毒をするだけじゃなく、『ちゃんと消毒してますよ』と言わないとお客さんに安心してもらえない。やるだけじゃなく説明が必要。日本にはそういう裏の仕事は黙って見えないようにやるという美学があったけれど、今はもう別の段階に入ってきてるんじゃないか。*1

 

今回の主催であるZiba Platformはマルイ・エンゲージメントキャピタルというNPOさんが運営してるカフェ兼コミュニティスッペースなんですが、その母体となっているのが岡山県北のスーパー、マルイさん。

 

www.maruilife.co.jp

 

そのマルイグループの若手さんとベテランさんのやりとりからこの発見がでてきたので、スーパーの店舗を想像しながらきいてたんですが、本当にそのとおりだな、と。

今回のウィルス禍は、これまで説明を求められなかったことに説明が求められるようになったり、説明するところまで含めての配慮が必要になったりする出来事だったんだなぁ。

 

「どこからどこまで自粛すべき?」という最初のテーマからずいぶん離れた気もするけれど、最初のテーマの根源に遡りながら、かつ最初のテーマ設定の際に見落としていたポイントを発見できて、大満足です。

 

次回は7月に開催したいですね〜と相談中です。

Ziba Platformでの開催になるのか、またオンラインでの開催になるのかはまだ未定ですが、決まり次第お知らせしますね。(どちらにせよ、次回は、さらにいろんな人にご参加いただけるといいな♪)

 

あと、Ziba Platform店内でのイベントや飲食提供はまだお休み中ですが、まちなかライブラリーは実施されてるそうなので、お近くの方はぜひ♪

npomec.or.jp

 

*1:5月23日の哲学カフェの参加者の言葉。松川の記憶による再現なので、細かい文言は実際と異なるかもしれませんが、ご容赦ください。

医療情報サイト「m3.com」で岡山大学の哲学カフェが紹介されました。

医療情報サイト「m3.com」に、岡山大学で実施している医療者向けの哲学カフェについての記事が掲載されました。

一緒に企画している岡山大学の医師の小比賀さんと、小比賀さんとのご縁を結んでくださった元薬学部生で薬剤師の松元さんと、私の3名のインタビュー記事になります。

 

医療者専用サイトなので私も読めないのですが(原稿はしっかり確認させてもらいました!)、もし読める方がいらっしゃったら、ぜひ!

 

www.m3.com

 

なんと、2回にわたっての記事だそうで、続きは5月29日に掲載の予定です。

2つの反論、異論と批判。と、学校教育において競争を利用することはまちがっているか?

今日は、明石高専の哲学概論(オンライン)の3回目。

「異論」と「批判」、2つの反論のちがいについて解説。

 

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参考:野矢茂樹『論理トレーニング』(産業図書)


その後、自分でなにかしらの立論をして、自分の立論に対する批判と異論を述べるという課題を出してみました。

お題は「学校教育において競争を利用することはまちがっているか?」。

 

オンライン化の影響で急遽授業プランを変えたので、よい課題が出せたかどうか自信がなかったんだけど、学生さんから届く解答が「なるほど、そういう視点もあったか!」と全教員で共有したいほどすばらしく、今後、学校でお仕事するにあたってめっちゃ参考になりそうなので、うれしい。

もうこれだけで、この授業をやっててよかったと思っちゃう。

 

そして、やっぱり学校のことは、生徒さんや学生さんの声を聞いてみるもんだなぁと改めて思う。

 

自分の立論に対して批判や異論を述べてみるという課題によって、独りよがりな見解にとどまらず、多角的でもう一歩踏み込んだ思考を促せたのもポイントかもしれない。

 

学生さんからも、

「会議や話し合いでも役に立ちそう」

「どの部分に対する反論なのかはっきり意識できてなかったけど、これらを区別することによって議論をより細かく捉えられるような気がしておもしろかった」

 という感想をいただいたので、今後もこれは続けたほうがよさそうだなぁ。

 

本日の参考図書はこちら。 

 

論理トレーニング101題

論理トレーニング101題

  • 作者:野矢 茂樹
  • 発売日: 2001/05/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

ひさしぶりに開いたら、意外と書き込みとか使い込まれた跡があって、「なんだ、わたしもけっこう基礎トレちゃんとやってるやーん」と思ったけど、よく見たら使いこまれてるのは「質問のトレーニング」「批判のトレーニング」のあたりだけ。

やっぱり、学生のころから、ひとりで論理を緻密に構築していくより、他の人にどうからんでいくかに関心があったんだなぁ。