てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

「悪いことは、なぜ悪い?」@antenna Coffee House

先日、2月の哲学カフェ尾道のレポートをアップしたところですが、すみません。

その、もういっこ前のレポートがまだでした。

電波状況が悪くて書いた記事が消えてしまう→落ち込んで、「明日書こう」→忘れる→思い出して書く→また消えちゃう→凹む‥‥‥というのを何度か繰り返してしまいました。

今度こそ!

 

というわけで、12月8日(日)の哲学カフェ尾道

テーマは、「悪いことは、なぜ悪い?」でした。

 

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直球!なテーマですよね。

「子どもの頃からずっと疑問で、モヤモヤしてたんです!」

「親も先生も『それは悪いこと』とは言うけれど、なぜ悪いのか教えてくれないから」

と初めてご参加くださった方も。

うれしいな♪

 

「相手が嫌がることを喜んでやるのは、悪では?」など、それぞれが思う悪とその理由がいくつか出るなか、

「社会的に悪いとされていることはいろいろあるけれど、それは誰かにとって都合が悪いというだけで、根本的な悪は存在しないのでは?」

という疑問が投げかけられ、そこから「社会的な悪」についてのやりとりがたくさん生まれました。

 

そのなかで注目を集めたのが、「ルール」や「お約束」の存在。

プロトコル」と呼ぶ方もいらっしゃいましたね。

何かが「お約束」となるからには、そうなるだけの理由があったのでは。

しかし、歴史や社会の変化のなかで、いまや意味をなしていない「お約束」もありそう。

「ルールだから」と、理由も知らせず押し付けてよいのか。

しかし、信号のように、みんなが守ることで存在意義が生まれるルールもある。

とはいえ、なかにはマジョリティにとってはメリットがあっても、マイノリティにとってはキツイ「お約束」もあるんじゃない?

などなど。

 

そんななか、終盤にある方が投げかけてくださった問いが、とても印象に残っています。

「たった一人きりの世界でも、悪は存在するのか?」

 

今回は、この問いについて熟考するところまではいかなかったけれど、うれしいお土産となった問いでした。
いつかこの問いをテーマにまた、哲学カフェしてみたいな。

 

 

さて、(こないだも書いたけど)次回4月の哲学カフェ尾道は、特別篇!

三木清の『哲学入門』をテーマ代わりに、みなさんとで感じたこと考えたことを語り合います。

本は持ってなくても、読んでなくてもOK!
みなさんのご参加お待ちしております♪

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カフェフィロセミナー:哲学カフェのつくりかた in 広島

哲学カフェ尾道の翌日、2月9日(日)は、広島でカフェフィロセミナー「哲学カフェのつくりかた」を開催。

カフェフィロひろしま哲学カフェのコラボ企画。

関西ではちょこちょこ開催しているセミナーですが、中四国以西での開催は初。

わたしが講師を務めるのも久しぶりで、とても楽しみにしていました。

 

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当日の流れは、こんな感じ。

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内容は講師に任せますということだったので、関西のプログラムも参考にしつつ、自由にやらせていただきました。

山本代表が講師を務めた神戸のセミナーと両方参加した方から、「それぞれ参加してよかった!」というお言葉をいただきました。

 

テーマを練るワークで「何もしないこと」というキーワードにオープンクエスチョン型、クローズドクエスチョン型のテーマをたくさんつくたあと、そのなかから選ばれた「何もしないことは悪いことか?」をテーマに2グループにわかれて哲学カフェ&進行役体験!

 

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スタッフの草間さんと「途中で出入りする参加者」として両方のグループをいったりきたりさせていただきました。

久しぶりに進行役ではなく参加者として哲学カフェを楽しんだかも。

両方のグループに共通の話題(「レンタルなんもしない人」など)もあれば、それぞれのグループ独自の例や論点も。

それに刺激されて、自分から出てくる体験が全然ちがって、びっくりしました。笑

 

レクチャーでは進行しやすいテーマの特徴とかいろいろ話しましたが、結局、なにかしら気づいてなかったことに気づかされたり、味わい深い話が聞けたりすると、「いいテーマだった!」と思えるもんですね。

みなさんとの対話で気づかされ、改めて「哲学カフェ、好きやわ〜」と実感できた1日でした。

 

ご参加くださったみなさん、ありがとうございました!

 

そして、ありがたいことに大人気で申し込んだものの参加できなかった方もいるとか‥‥‥

これを機に、広島でも哲学カフェ実践者のネットワークができるといいね、と話しています。

さっそく、セミナー終了後に哲学カフェ企画を練る面々も!

こうした学び合いの機会もみなさんと協力してつくっていけたらと考えてますので、その際はぜひご参加・ご協力よろしくお願いいたします!

 

また、このセミナーをきっかけに生まれたこちらも引き続きお楽しみいただければ。

 

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みんなで楽しく、中四国地方の哲学カフェ文化を耕していきましょう♪

「他人をどこまで理解できるか?」@antenna Coffee House

2月8日(土)は哲学カフェ尾道

第2日曜が定例なんですが、今回は翌日広島でセミナー(カフェフィロとひろしま哲学カフェのコラボ企画)を開催するため、1日ずらしてもらいました。

 

テーマは、「他人をどこまで理解できるか?」。

 

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「どこまで」という問いのかたちは、程度問題として語られると判断を掬うのが難しいので、あまり採用しないのですが、今回はマスターの問いかけに惹かれて採用。

 

コミュニケーションは大事。でも他人が何を考えているかは、わからない。まして完全に理解するなんて、とても無理そう。
では、全く理解できないかと言われれば、そんなこともない気がする。
ならば、どこまでなら理解できるのだろう?

逆に、自分のことなら、どこまでわかって欲しいですか?

 

たしかに、完全に理解できないと言い切るのは簡単だけど、まったく理解できないとも言い切れない。

その割り切れなさに向き合えたらおもしろそう!

 

参加者のみなさんからは、こんな視点がでてきました。

 

  • 何を理解してほしいかというと、気持ち
  • 同じ経験をしたわけでもないのに「わかる」と言われることへの違和感
  • 「どこまで」を誰が判断・評価する?
  • ちゃんと理解できているか、確かめようがない?
  • 共感的な理解と「自分はそうは思わないけど‥‥‥」という理解のちがい
  • 家族も理解できないという意味では他人
  • 理解してほしい!を諦めるとラクになるのはなぜ?
  • 理解してるフリやポーズはあり?問題

 

対話中も、「いまおっしゃったこと、どこまで理解できてるかわからないけど〜」といったやりとりや迷いが度々起こって、そのメタ対話感も楽しかった!

 

そして、もうひとつ今回の対話で興味深かった点は、「他人をどこまで理解できるか?」を考えているうちに、この問いについて考えたからこそ、この問いをはみ出す視点や問題が露わになってきたことではないでしょうか。

 

途中私が述べたのは「どこまで理解したいか」によって、「どこまで理解できるか?」の評価が変わってくるという点。

「理解したい」「理解してほしい」という気持ちが大きい場合は、まぁまぁ理解していても「全然理解できていない」と感じやすく、「理解したい」「理解してほしい」という気持ちが小さければ、ほとんど理解していなくても「けっこう理解できてる」と感じそう。

「どこまで理解できるか?」という問いの手前に「他者をどこまで理解したいか?」という問いが存在するような気がする。

 

参加者のみなさんのお話を聞いていても、「他者をどこまで理解できるか?」という問いをきいて思い浮かべる「他者」は不特定多数というより、大事な誰かだったりする。

そこからも、「他者をどこまで理解できるか?」という問いは、特定の理解したい/理解してほしい相手がいる場合に生じてくるものではと感じました。

 

そして、もう一方でとても印象深かったのが、「理解」の限界と別の可能性を示唆する発言。

理解できないからって、何もしてあげられないわけじゃない。

大切な人が苦しいとき、一緒にほっこりお茶を飲むとか、ただそばにいてあげるとか、理解以外にできることがあるはず。

大切な人だから理解したくなったり、理解できないもどかしさを感じたりするけれど、理解に拘るのをやめれば、もっとしてあげられることがあるのかもしれない。

 

さらに終盤、理解と行為の関係については、

食器洗いをして欲しいという私の気持ちを伝えているのに、食器洗いをしてくれない夫。

私の気持ちを理解していないから?

それとも、理解はしているけど行動しないだけ?

と、「欠如しているのは理解なのか?愛なのか?」問題も露わになります。

果たして、行為の有無からはかられるのは、理解の有無なのか愛の有無なのか?

 

おもいのほか、身近な大切な人たちとの関係に想いを馳せる対話となりました。

 

 

さて、次回の哲学カフェ尾道は特別篇。

4月12日にテーマの代わりに哲学書の言葉に触れ対話する「テツドク(哲読)」を開催します。

 

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取り上げるのは、三木清の『哲学入門』。

私が14歳のとき初めて読んだ哲学書です。

この本を読んで、「そうか、私がいままでこっそりしてたことって『哲学』っていうんだ!」と知ったのですが、哲学カフェ尾道の営みもそんなふうに感じられるのかどうか、みんなで確かめてみましょう。

科学など他の知と哲学のちがいや、「真理の行為的意味」に関心ある方にもおすすめです。

 

本を読んでなくても持っていなくても参加できるイベントですが、kindle青空文庫でも無料で読めるようです。

もし気が向いたら、どうぞ。

 

哲学入門

哲学入門

 

 

www.aozora.gr.jp