てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

「あなたの苦労はなんですか?」@高島公民館

本日1月28日(火)は、高島公民館の哲学カフェ、ふたばカフェ。

テーマは、「あなたの苦労はなんですか?」でした。

 

前に参加者の方からポロリと出た「ここにいる人たちは苦労してなさそう」という言葉をきっかけに生まれたテーマなんですが、実は、打ち合わせ時に採用するかどうかかなり悩んだテーマでした。

進行が難しそうだなぁって。

難しそうと思った理由は「あなたの」です。

「あなたの」があることによって、問いじゃなくて質問の形、つまり、みんなで協働して考えるというより、誰かが誰かに向ける一方向的なquestionの形になってる。

みんなの苦労話を聞くだけで2時間終わったら、どうしよう。

一緒に考えるということが、このテーマでできるだろうか。

かなり迷いましたが、打ち合わせに参加してくれた方の「自分のなかに“苦労”と呼べそうなものがあるかな?と自分自身に向き合うきっかけになりそう」という言葉に背中を押されて、取り上げることにしました。

 

結果。

うん、たしかに、みなさん自身の経験から語られる苦労の話は、なかなか興味深いものがありました。

他の人と感覚や育ってきた文化が異なることによる苦労、

病や障害など身体的な苦労、

人からは「苦労してるね」「大変だね」と言われるけど、自分ではそうは思わない働き方、

などなど。

なるほど、そういうところが大変だったり大変じゃなかたりするんだなぁ、と、初めての方もですが、お馴染みの方の知らなかった一面も垣間みえて、いつも見えている姿がその人のほんの一面ではないということを実感しました。

 

そして案の定、それらの「みんなの苦労」から、共通の問いがなかなか見つけられず、途中少しヒヤヒヤもしました。

ただ、「苦労とはなにか?」を考える切り口は、面白いものが出てきましたよ。

  • 苦労はしたほうがよい?
  • 苦労するかどうかは運によって決まる?
  • 苦労の大小は誰がどうやって測る?
  • 同じことでも人によって苦労と
  • 苦労したかどうか見た目でわかる?
  • 苦労は選べる?選べない?

 

特に印象深かったのは、点字ブロックをめぐる議論かなぁ。

「苦労したほうがよい?」という問いにも関わる一つの論点になりますが、「自分が苦労していないということは、その分、他の誰かの苦労が増えている」という意見。

正直、最初は全然ピンときませんでした。

私が経験した苦労(と呼べそうなもの)は、病気など、自分が経験したからといって他の人の苦労が減るとは思えないものばかりだったので。

でも、

「狭い道に点字ブロックがあると、自転車で走りにくい」という方と、

「でも、点字ブロックがないと、視覚障害者は外を出歩けなくなる」という視覚障害のある方の議論をきいて、ああ、そういうことか、と腑に落ちました。

他にも、視覚障害のある人にとっては段差があったほうが歩きやすいけれど、車椅子の人にとっては段差があると歩きにくいから、段差が2cmに決められているという話も興味深かったし、「じゃあ、タクシーチケットがあれば点字ブロックがなくてもいいか?」という問いかけから出てきた、「苦労は選べるか?選べないか?」という論点もおもしろかったです。

 

それから、それとはまた別の観点になるかもしれませんが、個人的には、人に苦労の大小を測られたり、「苦労してそう」「苦労してなさそう」と言われたときに感じる違和感の正体がずっと気になっていました。

人によって何を苦労と感じるかは異なる。

ということは、人によって苦労の大小の感じ方も異なるはず。

なのになぜ、誰かが苦労と感じている事柄を話すと「でも、もっと大変な人がいる」と言われたり、「自分の苦労なんてたいしたことない」と言ってしまったりするのか?

そのあたりは、まだまだ謎に包まれていそうです。

 

と、ここまで書いて、いま気づきました。

個人的には、苦労の大小を比べるなんてあまりしたくないけれど、点字ブロックに関する議論で出てきた問題を考えるには、苦労の大小を比べざるをえないこともあるのか!

ああ、でも、できれば苦労の大小にかかわらず、どんな人のどんな苦労も慈しみ労い合いたい。

そういう社会や関係性のなかで、わたしは生きたい。

 

苦労しましたって顔して生きたくもないけれど、

自分が苦しいと感じながら通り抜けてきた経験をなかったことにもしたくはない。

できればしたくはなかった経験だけど、あったことをなかったことにもしたくはない。

 

そんなふうに自分に向き合った2時間でした。

 

ご参加くださったみなさん、高島公民館のみなさん、ありがとうございました。

 

次回は2月19日(木)。

テーマは「合う人、合わない人がいるのはなぜ?」です。

どなたでもご参加できます。

お問い合わせは岡山市立高島公民館へお願いします。

 

 

「“ほどほど”ってどれぐらい?」@大元公民館

昨日1月27日(月)は、大元公民館にて、子育てモヤッとニコッとカフェでした。

テーマは「“ほどほど”ってどれぐらい?」。

 

食事中のしつけ、寝かしつけの時間、お弁当づくり、掃除の頻度などなどを例に、“ほどほど”に関するモヤっとが出てきます。

 

  • 7歳の“ほどほど”と5歳の“ほどほど”はちがう気がするけど、子どもに伝わらない
  • やった方がいいのはわかるけれど、毎日毎日はキツイ
  • 男性は仕事だけ、女性は家事・育児だけ、昭和の感覚は極端?
  • 「“どうしても”ってときは言って」の「どうしてもってとき」って???
  • 家族でも人によって“ほどほど”と思うレベルが違う
  • 自分では普通にやってるつもりだけど“ほどほどに”と言われてしまう

 etc...

 

そうそう、冒頭で参加者のひとりが教えてくださった、「最良の母とは、完璧な母ではなく、ほどほどの母である」という言葉は、もとはドラルド・ウィ二コットという人の言葉のようですね。

 

ja.wikipedia.org

 

英語だと“good enough mother”かぁ‥‥‥

これはこれで気になるし本も読んでみたいところですが、ひとまず今回のカフェでは、この言葉に励まされながらも「その“ほどほど”はどれぐらいなの!?」とツッコミをいれつつ進めることに。

 

そして、これらのモヤッとを緒に、“ほどほど”に関する示唆が少しずつ出てきます。 

  • 「毎日」「絶対」はなくす
  • 子ども相手は自然相手。思った通りにはいかないから、“ほどほど”が大事
  • 結局、“ほどほど”は自分が納得できるかどうか?
  • 励まされる“ほどほどに”と、受け入れにくい“ほどほどに”のちがいは?
  • 経験を重ねるほど“ほどほど”が増える、広がる
  • 自分が良いと思うことだけでは極端。子供にとってよい環境といえるのか?
  • 「自分が育てる」と思うと“ほどほど”は難しい。「みんなで一緒に育ててもらおう」と思うと“ほどほど”になるのでは。

 

みなさんのお話をききながら私が気づいたのは、どうも、“ほどほど”には2種類ありそうだということ。

  1. 思い通りにいかないから“ほどほど”にならざるをえない(外的な条件から決まる“ほどほど”)
  2. 自分が納得できるレベルとしての“ほどほど”(内的な基準から決まる“ほどほど”)

どうもこの2種類の“ほどほど”がごっちゃになるところが、問題をややこしくして気がする。

 

 

もうひとつ、みなさんのお話と自分の経験を照らし合わせて感じたのは、“完璧”や“100%”って自己満足なんじゃないか、ということ。

“ほどほど”って加減や判断が難しくて、「毎日絶対●時までに寝る」とか「汚れを見つけたら掃除機をかける」と決めてしまったほうがラクなこともある。

けど、そうしたほうがラクなポイントは人それぞれちがう。

「そこは“ほどほど”でよくない?」という人もいるから、自分がそうするのはいいけれど、他者がその決め事に付き合わされるのはキツイこともある。

“完璧”や“絶対”が悪いわけじゃないけれど、それが全ての人にとって目指すべきものかというとそうでもない。

だったらそれは、「“完璧”を目指すのは自己満足」ぐらいに思っといてちょうどよいんじゃないかな。

 

“ほどほど”について語る2時間は、“完璧”の不完全さ(語義矛盾?!)に向き合う2時間でもあったような気がします。

 

途中、掃除機談義なども交えつつ、和気藹々とした2時間でした。

ご参加くださったみなさん、大元公民館のみなさん、ありがとうございました。

 

「歴史とは何か?」@井原市芳井公民館

昨日1月25日(土)は井原市へ。

雪舟を語る会主催で、「歴史とは何か」をテーマに哲学カフェをしてきました。

 

やる前からわかっていたことですが、歴史について歴史的に語るのではなく、哲学的に語るって難しい‥‥‥。

ここにはこれこれこういう人物がいてこういう出来事があって…というその話で終わらず、それはどういう意味で「歴史」なのか、けっこうメタ視点が必要なテーマでした

「なぜ歴史を学ぶのか」をテーマにした方が、話しやすかったかなぁ。

 

ただ、そのもう一歩を言葉にしてもらったなかには、わたしの中にはなかった歴史観がたくさんあって、興味深かったです。

郷土史や先祖に歴史が与えてくれる誇りや拠り所、

わからなさが駆り立てる好奇心や想像力、

そこから生まれるロマン、

過去からの教訓と未来への想いetc.

 

井原の人が歴史とともに今を生きる姿が印象的でした。

また、一昨年の豪雨災害を、川の歴史のなかでどう語り継ぐかという課題も…。

 

ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。

 

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写真:井原鉄道吉備真備駅ホームにある案内板。本当に歴史が身近なところなんだなぁ。