てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

「“ほどほど”ってどれぐらい?」@大元公民館

昨日1月27日(月)は、大元公民館にて、子育てモヤッとニコッとカフェでした。

テーマは「“ほどほど”ってどれぐらい?」。

 

食事中のしつけ、寝かしつけの時間、お弁当づくり、掃除の頻度などなどを例に、“ほどほど”に関するモヤっとが出てきます。

 

  • 7歳の“ほどほど”と5歳の“ほどほど”はちがう気がするけど、子どもに伝わらない
  • やった方がいいのはわかるけれど、毎日毎日はキツイ
  • 男性は仕事だけ、女性は家事・育児だけ、昭和の感覚は極端?
  • 「“どうしても”ってときは言って」の「どうしてもってとき」って???
  • 家族でも人によって“ほどほど”と思うレベルが違う
  • 自分では普通にやってるつもりだけど“ほどほどに”と言われてしまう

 etc...

 

そうそう、冒頭で参加者のひとりが教えてくださった、「最良の母とは、完璧な母ではなく、ほどほどの母である」という言葉は、もとはドラルド・ウィ二コットという人の言葉のようですね。

 

ja.wikipedia.org

 

英語だと“good enough mother”かぁ‥‥‥

これはこれで気になるし本も読んでみたいところですが、ひとまず今回のカフェでは、この言葉に励まされながらも「その“ほどほど”はどれぐらいなの!?」とツッコミをいれつつ進めることに。

 

そして、これらのモヤッとを緒に、“ほどほど”に関する示唆が少しずつ出てきます。 

  • 「毎日」「絶対」はなくす
  • 子ども相手は自然相手。思った通りにはいかないから、“ほどほど”が大事
  • 結局、“ほどほど”は自分が納得できるかどうか?
  • 励まされる“ほどほどに”と、受け入れにくい“ほどほどに”のちがいは?
  • 経験を重ねるほど“ほどほど”が増える、広がる
  • 自分が良いと思うことだけでは極端。子供にとってよい環境といえるのか?
  • 「自分が育てる」と思うと“ほどほど”は難しい。「みんなで一緒に育ててもらおう」と思うと“ほどほど”になるのでは。

 

みなさんのお話をききながら私が気づいたのは、どうも、“ほどほど”には2種類ありそうだということ。

  1. 思い通りにいかないから“ほどほど”にならざるをえない(外的な条件から決まる“ほどほど”)
  2. 自分が納得できるレベルとしての“ほどほど”(内的な基準から決まる“ほどほど”)

どうもこの2種類の“ほどほど”がごっちゃになるところが、問題をややこしくして気がする。

 

 

もうひとつ、みなさんのお話と自分の経験を照らし合わせて感じたのは、“完璧”や“100%”って自己満足なんじゃないか、ということ。

“ほどほど”って加減や判断が難しくて、「毎日絶対●時までに寝る」とか「汚れを見つけたら掃除機をかける」と決めてしまったほうがラクなこともある。

けど、そうしたほうがラクなポイントは人それぞれちがう。

「そこは“ほどほど”でよくない?」という人もいるから、自分がそうするのはいいけれど、他者がその決め事に付き合わされるのはキツイこともある。

“完璧”や“絶対”が悪いわけじゃないけれど、それが全ての人にとって目指すべきものかというとそうでもない。

だったらそれは、「“完璧”を目指すのは自己満足」ぐらいに思っといてちょうどよいんじゃないかな。

 

“ほどほど”について語る2時間は、“完璧”の不完全さ(語義矛盾?!)に向き合う2時間でもあったような気がします。

 

途中、掃除機談義なども交えつつ、和気藹々とした2時間でした。

ご参加くださったみなさん、大元公民館のみなさん、ありがとうございました。

 

「歴史とは何か?」@井原市芳井公民館

昨日1月25日(土)は井原市へ。

雪舟を語る会主催で、「歴史とは何か」をテーマに哲学カフェをしてきました。

 

やる前からわかっていたことですが、歴史について歴史的に語るのではなく、哲学的に語るって難しい‥‥‥。

ここにはこれこれこういう人物がいてこういう出来事があって…というその話で終わらず、それはどういう意味で「歴史」なのか、けっこうメタ視点が必要なテーマでした

「なぜ歴史を学ぶのか」をテーマにした方が、話しやすかったかなぁ。

 

ただ、そのもう一歩を言葉にしてもらったなかには、わたしの中にはなかった歴史観がたくさんあって、興味深かったです。

郷土史や先祖に歴史が与えてくれる誇りや拠り所、

わからなさが駆り立てる好奇心や想像力、

そこから生まれるロマン、

過去からの教訓と未来への想いetc.

 

井原の人が歴史とともに今を生きる姿が印象的でした。

また、一昨年の豪雨災害を、川の歴史のなかでどう語り継ぐかという課題も…。

 

ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。

 

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写真:井原鉄道吉備真備駅ホームにある案内板。本当に歴史が身近なところなんだなぁ。

「災害の近さと遠さ」@宝湯

毎月第2火曜日は、宝湯で考える。

「宝湯」の愛称で親しまれる宝泉相生湯の2階での哲学カフェ。

最近は、お風呂であったまってからすっぴんで哲学カフェを楽しんでいます。

 

今月1月14日(火)のテーマは、「災害の近さと遠さ」でした。

 

実はこの宝湯の2階のお部屋、エアコンがなく、この時期は灯油ストーブが頼みの綱なのですが、会場にはいってみると、まさかの灯油切れ。

その寒さにちょびっと災害を近く感じてしまう、まさかの展開‥‥‥。

哲学カフェが始まって5分ほどで灯油が届き、ほっ。

 

いつもテーマは、一緒に企画している鑓屋さんが考えてくださることが多いのすが、今回はめずらしく、私の提案で。

カフェフィロの仲間でもある神戸大学の稲原美苗さんが「被災地をめぐる哲学対話」というシンポジウムを開かれるということで、その関連イベントとして「災害」関連の哲学対話を募集していたので、便乗してみました。

 

cafephilo.jp

 

 

「近さと遠さ」をテーマにいれたのは、阪神淡路大震災から災害のたびに近く感じたり遠く感じたりするモヤモヤについて考えてみたかったから。

ところが、最初に、阪神淡路大震災、東北大震災、ここ何年かの大雨災害などで感じた

  • 自分事として捉えられるかどうか?
  • 「なにかしなきゃ」と思うかどうか?

といった論点ででてきたあと、1時間強、ぱたりと「近さと遠さ」の話題はとぎれる展開に‥‥‥。

しばし、いろんな角度から「災害とはなにか?」を考える時間が続きました。

  • 災害に遭うのは運が悪い(→その人には責任がない)
  • 災害とは、日常ががらりと変えてしまうもの
  • その場所が危ないと知っていても、災害に遭ってしまうのはなぜ?
  • 自業自得と災害は両立しうる?
  • 公害も災害? 交通事故も災害?

途中、「そろそろ、近さと遠さの話にもどる? それとも、このまま災害とは何かを考える?」と声をかけても、しばらく災害とは何かに関するやりとりが続いていたので、いったん「近さと遠さ」について考えるのは諦めたのですが、あと30分足らずというところで、「災害に遭う=運が悪い(その人のせいじゃない)」説の人が「災害について近いとか遠いとか全く思ったことがない」ということが判明。

災害を近いとか遠いとか感じている私とでは、全然ちがう枠組みで災害をみていることがわかりました。

 

「災害に遭う=運が悪い(その人に責任はない)」説を唱えていた人は、「被災した人は運が悪いだけで、その人に責任のあることではない(自業自得ではない)。だから、そういう人には社会的なサポートや支援が必要だ」と考えている。

 

一方、私は、そういう社会的な視点ではなくて、被災地にいる知り合いの存在から災害を近く感じたり、「被災地に住んでるあの人が今どういう状況かわからない」「何かしたい気持ちはあるけれど、行けない」と遠く感じたり、とても個人的な関係性のなかで災害や被災地を近く感じたり遠く感じたりしていたような気がします。

 

さらに別の視点として、哲学カフェで他の方が話された、「ひとりひとりの具体的な姿がみえてくると、近さを感じる」という方もいました。

この共感から近さや遠さを感じるのと、関係性から近さや遠さを感じるのは同じでは?という声もありましたが、わたしが距離を感じるときの関係性という指標は、その方が指摘された共感できるかどうかという指標とはまた別のもののような気も‥‥‥。

この共感性の指標と、最初に「自分事として考えられるか」という視点が重なる方もいるでしょう。 

しかし、「自分事として考えられるか」という視点から近さや遠さを感じる方のなかには、共感というより「自分も無関係ではない」という責任感や「自分もいつ被災するかわからない」という方もいそうです。

 

そんなこんなで夢中になっていたら、ちょっと時間をオーバーしちゃいました。

「災害とはなにか?」については、まだまだ語り足りない思いもありますが、ひとまず「近さと遠さ」という視点から、災害について両立するかもしれないけれど異なる視点がいくつか浮かび上がり、モヤモヤを整理するヒントになりそうです。

 

ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。