てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

高専での哲学対話の可能性を考える

わたしが〈てつがくやさん〉になろうとおもったのは、

哲学カフェで生活費を稼ぐというだけじゃなく、

てつがくやさんの仕事の開拓を通して哲学の新たな可能性を切り拓くため

でもあるのですが、これもその一つ。

 

フツーに「哲学概論」を教えている非常勤先、明石高専で、

情報工学の先生と新たに、対話をとおして情報倫理の問題を考える授業を開拓。

カフェフィロや大阪大学臨床哲学の仲間と一緒に試行錯誤で進行すること5回。

最終回は他所の高専で哲学対話に取り組む方もお招きし、

対話を振り返ったり、高専での哲学対話の可能性を考えたりしました。

 

cafephilo.jp

 

 

同じ高専といっても、学校ごとに科目設定や教員の割り当てがちがうので、

何年生にどういう授業で何をするのか、様々であることがわかります。

哲学教員によってこだわりがちがうというより、

それぞれの枠組みのなかでそれぞれができることをやってるという感じ。

高専に限らず「授業で哲学対話をしてみたいけど、どういう枠組みで?」

と迷う先生の参考になるかもしれません。

 

ご関心のある方は、企画をしてくださった情報工学の先生、佐村さんの論文

「指針の空白を埋める情報道徳教育」

もぜひ合わせてどうぞ。

 

 

 

「世の中ってどこにあるの?」@ヨノナカ実習室

知り合いが、スロウな本屋さんのお隣で、ヨノナカ実習室なるものをはじめました。

 

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なんかいろいろ「実習=実際にやってみる」ところらしい。

 

それなら、哲学もやってみよう!

というわけで、開局祝いとして哲学カフェをプレゼントすることにしました。

「ヨノナカ実習室」だから「世の中」に関するテーマがいいなと相談した結果、テーマは「世の中ってどこにあるの?」に。

 

www.facebook.com

 

みなさんが来る前に、パチリ。

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「『世の中』に自分も含む?含まない?」

「家のなかも、世の中?」

「『世の中』と『世間』や『社会』のちがいは?」

「『世の中に貢献する』ってどういうこと?」

「『世の中に出る』とは言うけど、『世の中に入る』とは言わないのはなんで?」

「なんで“ヨノナカ実習室”はカタカナで“ヨノナカ”なの?」

などなど、いろんな疑問を行き来しつつ、楽しく展開。

 

後半は、「学校も世の中?」「学校で学んだことは、世の中に出るのに役立つ?」いった疑問から、世の中と学校の関係や、「世の中に出るために必要な学びって?」をめぐって盛り上がりました。

 

話しながら、参加者に高校生や学校の先生が混じってることはわかりましたが、終了後、そのうちのふたりが、同じ学校の先生と生徒だということがわかって、びっくり!

哲学カフェ中、先生と生徒感が全然なかったから。

でもそれが、哲学カフェのいいところですよね。

知ってる人とも普段の関係性を超えて話せる。

 

「世の中って」ネガティブなイメージで使われることも多い言葉だけど、ヨノナカ実習室を通して新たな「ヨノナカ」をつくっていけるといいなぁ。

そんな思いに至る哲学カフェでした。

 

 

そして今週末は、お隣のスロウな本屋で、えほん哲学カフェです!

 

 

slowbooks.jp

 

なかなか納得のいく絵が描けない絵描きが、最後には満足そうなのはなぜなのか?

納得いく仕事や生き方を模索してる人と一緒に読んでみたい一冊。

「それ、わたしのことだ!」という方は、ぜひどうぞ。

許すとは、許しがたいことを許すこと

「許す」は、哲学カフェでもそこそこ人気のテーマだったりしますが、

わたし自身もここ何年か「許したいけど許せない」と悩んでいたことがあったりしました。

ほんの10日ほど前、ふと「(その相手に)優しくできないから会わない」と言葉にしてみたらスッキリして、そもそも「許すか許さないか」という問いが葛藤のモトだったのかもしれないと思う今日この頃ですが、

その後、「許す」について、意外なところですとんと落ちる言葉に出会ったので備忘録。

 

信じられないかもしれませんが、そうなのです。
なぜなら、許し難いことを許すことが、許すことだからです。
それこそが、許すということです。
どうでもいいことを許す時、許すということの意味がどこにあるでしょう?

それには、許すという言葉は当てはまらないのです。
なんの問題もなく、もともとオーケーなのですから。
そこには、許す許さないの選択すらありません。
ですから、許すとは、とても許せないと思えることを許すことなのです。

 

子どもを許すとは、だらだらしているのをただ黙認していればよいのですか?【前編】[教えて!親野先生]|ベネッセ教育情報サイト

 

 

だらだらしている子どもを黙認していいのかと悩むお母さんへの回答で、

このあと「叱ったり責めたり嫌みを言ったりするのをやめて、ほめることを増やしてください」など、定番といえば定番のアドバイスが続くのですが、

わたしのほうはこれを読んで、「そもそも許すというのが許し難いことを許すことなら、許せなくてもしゃーないな」と、むしろ許せないことに納得できたのでした。

それは、子育て以外の人間関係にも大いに当てはまりそうです。

 

そして、許せないからといって関係を断たなきゃいけないってわけでもない。

「あのときのあれは未だに許せないけど、一緒にいる」という選択肢もありうる。

だから、わたしのなかでは「許せないから会わない」じゃ腑に落ちなかったんだな。

「会わない」の理由として「許せない」は不十分でした。

もちろん、それで十分な理由になる人もいるだろうけど、わたしにとってはそうじゃなかった。

現状はなにも変わってないけれど、本当の理由が「嫌なことしてくる相手に優しくできないから」だとわかって、すっきり。*1

 

 

benesse.jp

 

 

*1:今回は哲学カウンセリングしてもらったわけではないけれど、哲学カウンセリングではしばしばこういうふうに問題解決とは異なる仕方で悩みが解消されることがあります。