昨日2月19日(火)は、神戸大学へ。
シンポジウム「ヴァルネラビリティと対話」に登壇者として参加してきました。
わたしは、「語られなかったことが語られるとき」と題して、家族/遺族のためのがんカフェと福祉施設での対話について発表(+相談)させていただきました。
学生の頃は本に出てくるなにやら抽象的で深淵な思想概念という感じでしたが、様々な対話実践を経て、とても具体的なシーンがたくさん思い浮かぶようになりました。
「傷つきやすさ」、「被傷性」、「脆弱性」、「攻撃誘発性」‥‥‥いろんなふうに訳されますが、わたしが今回思い浮かべたのは、安易に触れられると傷ついてしまう、だからといって、ないフリをすれば不要に触れられてしまう危険もあるし、ないフリをし続けるのも大変な、なにか。
その人にとって大切で深刻だからこそ、共有できたらうれしいけれど、安易に触れるのは大きなリスクを伴ってしまう‥‥‥そんななにかが、語られるときの条件とは?
また、それが語られないほうがよいのはどんな場合か?
他の登壇者の方々(私にとっての先生方、先輩方)に比べたら、とても幼く拙い発表だったと思います。
もう少し話し慣れていることを焼き直すことも考えたのですが、せっかく先生方や先輩方にお会いできる貴重な機会だったので、他ではまだ話したことがない、哲学プラクティショナー(実践者)として今まさに迷っていることを「ヴァルネラビリティ」に寄せて、お話させていただきました。
自分の未熟さを晒してでも、なにかヒントがほしい。
そんな思いで拙い話をきいてもらって、みなさんのお話をきいて、本当によかった。
痛みを表現するとはどういうことか。
「対話」の広さと「哲学散歩」や「がん川柳の会」の意味。
話すほうだけでなく、聞くほうも痛みを伴うということ。
量ではない質的ななにか。
「語らせる」ことの危険性。
ピアとはなにか?という問い。
たくさんヒントをいただきました。
来場してくださった方からも、「今回のシンポジウムに参加して、なぜ対話がケアとつながるのか初めて腑に落ちた」という感想も、うれしかった!
懐かしい方にもお会いできました。
ご来場くださったみなさん、質問やアドバイスをくださったみなさん、そして企画してくださった神戸大学の稲原さん、本当にありがとうございました。