さきほど、イベント中止の記事を書いて、思ったこと。
コロナにふりまわされてうんざりしちゃうけど、こういうのも、哲学プラクティスのプラクティス(実践)たるところだよなぁ。
たとえば、第2の患者会 すろーすは、がん患者の家族のための活動だから、
一緒に暮らしているがん患者さんを危険に晒さないように、
オフラインでのイベント開催には、とりわけ慎重になる。
慎重にはなるけれど、オフラインでないと参加できない誰某の顔が思い浮かぶから、
オフラインの企画を完全に断念するわけにもいかない。
いろんな人と、話して、きいて、考えるを実践してるけど、
コロナ禍で、最も影響を受けている活動がすろーすの活動だと思う。
一方で、就労移行支援施設であるフリーデザイン岡山での対話は、
このコロナ禍でも一度も中止になっていない。
それは、利用者さんの「働く」の準備として、
生活のリズムを調えることが大事と認識されているからだ。
コロナの影響で地域の方にもオープンに開くことはできないけれど、
自宅からオンラインで参加する利用者さんもいるけれど、
生活のリズムを崩さないように、毎日なにかしらのプログラムを実施する。
具体的な状況のなかで、何を中止し何を続けるのかという判断は、
自分が対話しようとしているのがどういう人たちなのか、この場にどういう意味があるのか、理解していないとできない。
なんでもやればいいってわけでもないし、なんでもオンライン化すればいいってわけでもない。
誰のための、なんのための、哲学プラクティスなのか?
コロナにふりまわされるたびに、誰かと一緒に考える。
そこも含めて、哲学プラクティスなんだと思う。
中止になったからといって、哲学プラクティスがなくなったわけじゃない。