てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

コロナにふりまわされるのも、哲学プラクティスのうち。

さきほど、イベント中止の記事を書いて、思ったこと。

コロナにふりまわされてうんざりしちゃうけど、こういうのも、哲学プラクティスのプラクティス(実践)たるところだよなぁ。

 

matsukawaeri.hatenablog.com

 

 

たとえば、第2の患者会 すろーすは、がん患者の家族のための活動だから、

一緒に暮らしているがん患者さんを危険に晒さないように、

オフラインでのイベント開催には、とりわけ慎重になる。

慎重にはなるけれど、オフラインでないと参加できない誰某の顔が思い浮かぶから、

オフラインの企画を完全に断念するわけにもいかない。

いろんな人と、話して、きいて、考えるを実践してるけど、

コロナ禍で、最も影響を受けている活動がすろーすの活動だと思う。

 

一方で、就労移行支援施設であるフリーデザイン岡山での対話は、

このコロナ禍でも一度も中止になっていない。

それは、利用者さんの「働く」の準備として、

生活のリズムを調えることが大事と認識されているからだ。

コロナの影響で地域の方にもオープンに開くことはできないけれど、

自宅からオンラインで参加する利用者さんもいるけれど、

生活のリズムを崩さないように、毎日なにかしらのプログラムを実施する。

 

 

具体的な状況のなかで、何を中止し何を続けるのかという判断は、

自分が対話しようとしているのがどういう人たちなのか、この場にどういう意味があるのか、理解していないとできない。

なんでもやればいいってわけでもないし、なんでもオンライン化すればいいってわけでもない。

 

誰のための、なんのための、哲学プラクティスなのか?

コロナにふりまわされるたびに、誰かと一緒に考える。

そこも含めて、哲学プラクティスなんだと思う。

中止になったからといって、哲学プラクティスがなくなったわけじゃない。