てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

こどものための哲学教室『せかいでさいしょにズボンをはいた女の子』

今日は、さんかく岡山(岡山市男女共同参画社会推進センター)主催、こどものための哲学教室を開催。

小学1〜3年生の子10名と、『せかいでさいしょにズボンをはいた女の子』を読みました。

 

 

先月末のテツトークで『差別の哲学入門』の池田喬さんと、「この絵本、いいですよね」と盛りがってたやつです。

 

読み終わったあと、実話が元になっていることを伝えると、「え!ほんとにあったことなん!?」と驚きの声があがりました。

よっしゃ、つかみはOKだ。

 

やっぱり絵本の力は偉大だなぁ。

 

最初の自己紹介では、シャイだった子、声が小さかった子、「えー、よんでほしい名前とか特にない」なんてやる気なさそうに言ってた子もいましたが、少しずつ「はい」「はいはい」と発言権を求める声があがり、中盤からは、ほとんどの子が「はいはいはいはい!」と声をあげ、ほぼ常にだれかの手が上がってる状態に。

 

とくに今回大盛り上がりのきっかけになったのが、ズボンを履いて投稿するメアリーに対し、学校の前で反対する人たちが描かれたページ。

「女の子はドレスをきるべき!」

「ズボンなんてとんでもない」

「ドレスはステキ」

なんて看板を掲げる姿に‥‥‥

 

「自分はドレスを着たことがない男の人が、『ドレスを着るべき』なんておかしい」

「ズボンをはいたことのない女の人が、ズボンよりドレスのほうがステキだなんて、どうしてわかるの?」

「女の子はズボンをはいちゃいけないって、誰が決めたの?」

 

ツッコミをいれまくったと、みんなのギモンを紙に書いてもらって確認。

なかでも複数の子が挙げた、以下のポイントが印象に残りました。

  • 着たことがないのに問題(着たことがなければ、男の人はドレスがきついこと知らないし、女の人もズボンがステキってこともわからないのでは?)
  • 誰が決めたの?問題(女の子はズボンをはいちゃいけないって決めたのは、男の人?そもそも、決めた人はいない?)
  • 味方問題(女の人も女の人の味方をしてくれないのはなぜ?女の人も男の人の味方?お父さんはメアリーの味方だと思うのはなぜ?)

3つ目の味方問題については、指摘してくれた子たちのあいだでも、共通するポイントと人によって考えが異なるポイントがありそう。

これは、今後も考え続けたい問題だなぁ。

 

あと、今日は掘り下げ損ねてしまったけれど、最後のほうに、話すのをパスする子に対して「話すべきだ」という意見が出たシーン、わたしのなかでこんなギモンも浮かんじゃいました。

  • 「ドレスを着なさい」と押しつけるのと、「発言しなさい」と押しつけるのは、同じ?ちがう?

もしまた同じメンバーで話す機会があったら、みんなの意見がきいてみたい!

 

 

みんなから刺激を受けて、わたしのなかでもたくさんギモンと発見が湧いてくる時間でした。

参加してくれたみなさん、申し込んでくださった保護者のみなさん、さんかく岡山のみなさん、ありがとうございました。

 

 

ちなみに、同じ絵本を取り上げた大人向けのえほん哲学カフェはこんな感じでした。

同じ絵本で話しても、対話の内容はけっこうちがう!

matsukawaeri.hatenablog.com

 

 

「この絵本、いいよね」と盛り上がった、池田喬さんたちの本はこちら。

今年勝手に宣伝したい本トップ3に入りそう。

 

 

【追記】

公開後に、こんな記事見つけちゃった。

 

【腑に落ちない】パンツスーツで臨んだ面接。「せっかく女性なんだからスカートで…」面接官が放った言葉にモヤっと

https://trilltrill.jp/articles/2768172

 

まだ「むかし」になりきってなかったかー(>_<)

ニーズには応えるけど、期待には応えない

今日、尾道に行く道すがらで考えたこと。

 

私は、誰かのニーズに応じて哲学対話を企画する。
どんな人を対象に、いつ、どんなテーマでどんなふうに(哲学カフェスタイル?p4cスタイル?など)実施するか、一緒に考え提案する。
このニーズに応えるという要素が、私の実践を実存的なものにしてくれている。
「考えるべき」問いについて考えることと、誰かの「考えたい」問いについて考えることは違う。
前者の問いは「課題」であり、後者は…なんと言ったらいいのだろう?
とにかく、その問いについて「考えたい」人がいて初めて、その問いは実存性を帯びうる。

 

けど、対話が始まったら、誰かの期待に応えようとはしない。
ただただ哲学に没入する。
お金をもらっているからって、言いなりになってはならない。
それは、知を愛する行為とは別の何かで、知を愛する行為とは相反する行為だから。
他者をリスペクトすることは私が哲学するには欠かせないけれど、それと言いなりになることは違うから。

 

“てつがくやさん”でいること(お金をもらって哲学すること)と、パレーシアテース(真理を語る者)でいることは、私のなかでそんなふうに両立しているのではないか。
(知らんけど=仮説やけど)

多様性という言葉が生んだおめでたさ〜朝井リョウ『正欲』〜

さんかく岡山でおすすめされて、手にとって、だいぶ経つけど、まだ読み終わってない。

でも、とりあえず最初の6ページは、誰かと共有して対話してみたい感じだったので、備忘録です。

 

正欲

正欲

Amazon

 

多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。

自分と違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。自分らしさに対して堂々としていよう。生まれ持ったものでジャッジされるなんておかしい。

清々しいほどのおめでたさでキラキラしている言葉です。これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる“自分と違う”にしか向けられていない言葉です。

朝井リョウ『正欲』p.6)

 

哲学カフェに参加した後輩の、「自分が想像していた“多様性”と全然ちがった。わたしが想像していた“多様性”は、もっとずっと狭かった」という言葉を思い出しました。