てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

「ふつうって何?」@フリーデザイン岡山

先週の木曜日は、就労移行支援施設フリーデザイン岡山へ。

生きづらさを抱える人たちの“働く”をサポートする施設です。

テーマフリーの哲学カフェと、コミュニケーション関連のテーマを扱う哲学カフェとを交互にやっていて、今月はコミュニケーション縛りの回。

 

コミュニケーション縛りの回で、このテーマが出たのが意外でした。

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3つテーマ候補が出て、一番最初に出た「ふつう(普通)って何?」に決定。

ここに来ると、「コミュニケーション」の範囲が、私が思ってたより広いことに気づかされます。

 

面接前に、周りの人に「普通でいいんだよ、いつもどおりの○○さんでいいんだよ」と声をかけてもらったけれど、「普通の私ってなんだ!?」と疑問に思ったそう。

なるほど、「いつもどおりの」という意味の「普通」か〜。

「普通って何?」は人気のテーマで他でもやったことがあるけれど、そういう意味での「普通」はこれまでの哲学カフェで注目されることはなかったなぁ。

 

今回の哲学カフェでは、この「いつも通り」という意味の「普通」と「常識」や「当たり前」といった意味で使われる「普通」と並行して吟味が進みました。

 

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板書には書きそびれちゃったけれど、「いつも通り」とはいっても、「いつも通りの私」も色々ある。

フリーデザインにいるときの私、友達といるときの私、家族といるときの私‥‥‥どれも「いつも通りの私」だけど、それぞれちがう。

‥‥‥というような指摘がありました。

となると、会社の私も、それらの私とはちがう私の可能性になるのが自然な気もする。

でもその一方で、「いつも通りのあなたでいいんだよ」という言葉には、ありのままの自分を認めてくれてるような優しさも感じる。

 

どちらの「普通」も、変化したり、ローカルなものだったりするけれど、何かを押し付けるために使われる「普通」と、ありのままでいることを肯定する「普通」と。

 

ふたつの「普通」について行きつ戻りつしつつ考え整理する対話となりました。

 

終了後、スタッフの方から「自分も利用者さんに何気なく『ふつうでいいんだよ』と言ってたけど、そういうふうに利用者さんが疑問を抱くこともあるんですね。今度から、もう少し具体的に『いつもどおり〜でいいんだよ』って言ってみようかな」と感想をいただきました。

前回もそうでしたが、こんなふうにスタッフの方が利用者へ何気なくかけている言葉が問い返されるのも、ここの哲学カフェのおもしろさのような気がする。

そういうところに、“てつがくやさん”として、とてもやりがいを感じています。

 

 

前回の様子は、こちら。

matsukawaeri.hatenablog.com

 

『ジュリアンはマーメイド』(サウザンブックス)

えほんやさんに、『ジュリアンはマーメイド』という絵本をご紹介いただきました。

今週末、えほん哲学カフェを開きます。

 

ehonyasan.shop-pro.jp

 

LGBTをテーマにした作品に贈られるストーン・ウォール賞大賞を受賞してるということで関心をもったのですが、シンプルに、憧れと想像力、なりたい自分になるには何が必要かなどなど考えることができそうな1冊。

 

絵本の背景となっているマーメイド・パレードと、

en.wikipedia.org

 

出版しているサウザンブックス社もめっちゃくちゃ気になる。

クラウドファンディングでいろんな本を出版してるらしいのですが、

マイノリティに寄り添った本がたくさん。

 

thousandsofbooks.jp

 

自閉症スペクトラム障害の男の子の自立を描いたという『キッズライクアス』
が特に気になっています。
 
 

ミニマルでコンセプチュアルな

先日、神戸を訪れた際、ついでに兵庫県立美術館でやってる特別展「ミニマル/コンセプチュアル展」を観てきました。

 

www.artm.pref.hyogo.jp

 

ミニマル・アートは、主に1960年代のアメリカで展開した美術の潮流です。作家の手仕事やその痕跡を廃し、工業用素材や既製品を用いて、単純で幾何学的な形やその反復から成る作品を制作しました。ミニマル・アートに続いて現れ、同時代に国際的な広がりを見せたコンセプチュアル・アートは、物質的な制作物以上に、その元となるコンセプトやアイデアを重視します。(兵庫県立美術館 ミニマル/コンセプチュアル:ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術

 

観る前は、「ミニマル」と「コンセプチュアル」がどうしてセットになるのかと疑問でしたが、観ているうちに、「そうか、ミニマルを追求するとコンセプチュアルになったり、コンセプチュアルであろうとするとミニマルになったりするのね」と納得。

 

哲学でも概念化(コンセプチュアライズ)は大事な要素なので、そういう視点からも興味深く。

たとえば哲学ウォークでも、コンセプトを作ることが要求されたり、「質問は短く」なんて言われたりする。

これも、単にワークの作業としてそうなっているのではなく、なにかしらの本質や核のようなものを掬い取ろうとする行為の現れなのだと思う。

 

言葉だと言葉するという行為自体に概念化が含まれてくるけれど、アートだとどうなるのか。

 

立方体が並んでいたり、

数字が並んでいたり、

毎日起きた時間をはがきで送ったり、

作者(?)は指示を出すだけで制作は他の人がやったり、

 

作品を観ていると、「アート」や「作者」「作品」といった概念の淵に立たされるような気分でした。

 

 

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