てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

母はエイリアン

先日、3年ぶりに母と話していて、衝撃の事実が発覚した。

母にとって私はこの世でもっとも近い存在で、だから私に話すときは自分に話すのと同じ感覚でいたらしい。

どうりで気遣いゼロやと思ったわ( ̄◇ ̄;)

 
 
母が自分に話すかのように娘に話すとき、母は娘を他者として認識できてないわけで。

全く悪気なく、娘の気持ちや考えは無視されてしまう。

そんなものがあるということすら、娘が「私はあなたではありません」「娘には娘の気持ちや思考があります」ということを示さなければ、しかも一度ではなく示し続けなければ、気づいてもらえないのだ。

 

価値観の相違だとかいう以前の問題ですね。
 
たぶん、そこかしこの母娘のあいだで、こういうことが起こっているのだと思う。
 

 

母がしんどい

母がしんどい

  • 作者:田房 永子
  • 発売日: 2012/03/23
  • メディア: 単行本
 

  

 

 

気づけない毒親

気づけない毒親

  • 作者:高橋 リエ
  • 発売日: 2019/06/22
  • メディア: 単行本
 

 

長女はなぜ「母の呪文」を消せないのか ―さびしい母とやさしすぎる娘

長女はなぜ「母の呪文」を消せないのか ―さびしい母とやさしすぎる娘

  • 作者:大美賀 直子
  • 発売日: 2014/12/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 
それにしても、私にとっては自分と双子である姉のほうが(性格や好みは全然ちがうけど)ずっと近い存在なので、母が、姉と私より母と私の方が近いと認識していたとは驚きでした。
(姉は子どものころ男の子っぽい子だったので、自分とはちがう存在=他者としてちゃんと認識されたらしい。私は、レースやリボンが大好きな女の子っぽい子だったことが災いしました?)
(もし私が双子じゃなかったら、私も母と自分を同一化してしまい、もっとこじれていたのかもしれない、とも思います。)

 

私にとって母は、完全なる他者。

しかも「私はあなたではありません」ということがいちいち示さないと通じないだなんて、宇宙人に接するぐらいのつもりで付き合うのがちょうどいいのかもしれません。

『まともがゆれるー常識をやめる「スウィング」の実験」』

久しぶりに、ケアを考える会にオンラインで参加。

こちらの本を読みました。

 

まともがゆれる ―常識をやめる「スウィング」の実験

まともがゆれる ―常識をやめる「スウィング」の実験

  • 作者:木ノ戸昌幸
  • 発売日: 2019/01/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

京都の障害福祉NPO法人「スウィング」に集う、障害を持つ人・持たない人たちの「できないこと」にこだわらないエピソードと、脱力しきった詩の数々。
誰かが決めた「まとも」を見つめ直し、ゆらしたりずらしたりすることで、それぞれの生きづらさを緩めるヒントとなる一冊。

amazonの商品紹介文より)

 

障害福祉に関心がある方だけでなく、ちょっと肩の力を抜いて生きたい人にもおすすめの一冊です。

 

「圧倒的に良いことを押しつけがましさのない活動に変えること」、そして「誰でもできる単純作業を魅力的な活動に変えること」。これら2つの課題をクリアにするため、試行錯誤の末に勝手にこしらえたローカルヒーローが「まち美化戦隊ゴミコロレンジャー」である。 (『まともがゆれる』Kindle版No.189)

 

ゴミが多ければ「一体どうなってるんだ!?」と憂き世を嘆き、ゴミが少なければ「拾うもんないやんけ!」と理不尽に毒づき、どっちにしたって元気ハツラツぶーたれながら、我らゴミコロレンジャーの戦いは果てなく続く。 (『まともがゆれる』Kindle版No.216)

 

ゴミが多くても少なくてもぶーたれんのかい!とツッコミをいれちゃう。

参加者のKさんも言ってたように、文章が軽妙でうまいんだなぁ。

 

たぶんいつ読んでも肩の力が抜いてくれる本なんだけど、コロナできゅっと縮こまることもある昨今なので余計に、このゆるさが心地いい。

 

そして、なんか生きるうえで覚えておきたい言葉がいっぱい。

 

人間はちゃんと、失敗するようにできている。(『まともがゆれる』Kindle版No.418)

 

「ケツの穴の小ささ」 とは、他者に対する、ひいては自分自身に対する不寛容さと言い換えることはできまいか。(『まともがゆれる』Kindle版No.419)

 

社会通念上、愚かしいことであっても、人にはそのような行為をする自由があり、誰からもその行為を邪魔されずに生きる権利がある。これを「愚行権」と言うのだそうだ。(『まともがゆれる』Kindle版No.564)

 

そもそもこの社会の隅々にまではびこり、おそらく多くの人を苦しめている「できること=良いこと(素晴らしい)」「できないこと=悪いこと(ダメ)」という価値観って一体何なのだろう。ホント何これ、教育? マジで意味分かんない。できることはただでいるだけ、できないことはただできないだけ、良い悪いでもないし、それ以上でも以下でもない。これじゃいけないんだろうか?(『まともがゆれる』Kindle版No.656-658)

 

あと、「障害者アート」という言葉に対する違和感の正体。

私も以前から違和感を抱いていて、本書の指摘にすっきりしました。

 

「『障害者やのに』って感じがするからじゃないですかね」(『まともがゆれる』Kindle版No.958)

 

つまり「障害者アート」って、「スイーツ男子」とかと同じ種類の言葉なんだなぁ。

偏見ありきの言葉。

それが福祉施設とか公共ので使われると、さらに違和感が増幅しちゃう。

 

そして僕たちが懸念するのは、障害者アートが隆盛するにつれ、キラキラ系イメージに上乗せされるように「障害者=優れた芸術を生み出す人」といった新たなド偏見が顕出しつつあることだ。なかにはそういう人もいれば、まったくそうじゃない人もいる。ていうかまったくそうじゃない人のほうがほとんどだ。少し想像力を働かせれば分かりそうなことだが、「それぞれが違った一人ひとりの人間である」という人類普遍の真実をついつい忘れ、大きなラベルで括ってしまいがちな思考回路は決して他人事ではない。(『まともがゆれる』Kindle版No.977)

 

「意見の違いこそ政治の本質です」

YouTubeを散歩中に見つけた動画。

 


英下院議長の“野次の諫め方”① 190201

 

ときに騒ぐ生徒に対する先生のように、ときにユーモアを交えながら、野次を諌める。

その根底にある、政治や議会はこうあるべきという信念。

 

意見の違いこそ、政治の本質です。 (ジョン・バーコウ)

 

人々の合意が簡単に得られないときこそ、まさに議会が意味をもつのです。(ジョン・バーコウ)

 


下院議長の涙のワケは?混迷する英国政治の“仕切り役”が交代

 

 

哲学カフェの進行も、信念からぶれないように。