てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

『もうろうをいきる』上映会&シネマ哲学カフェ

前から予告していた、『もうろうをいきる』の上映会とシネマ哲学カフェの詳細が決まりました。

映画館でゆったり観たい方は、2月10日、シネマ尾道へどうぞ。
感想など語り合いたい方は、2月11日にantenna Coffee Houseでお会いしましょう。

 

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© 2018 映画『もうろうをいきる』公式サイト

上映会

  • 日時:2月10日(土)開場12:30 上映13:00〜
  • 場所:シネマ尾道
  • 料金:1,700円

www.facebook.com

 

シネマ哲学カフェ

  • 日時:2月11日(日)13:10〜映画上映 15:00〜シネマ哲学カフェ
  • 場所:antenna Coffee House
  • 料金:2,000円+ドリンク代
  • 定員:12名
 
映画の公式サイトはこちら

哲学カフェ「多数決で決めちゃいけないのは、どんな時?」

あけましておめでとうございます。

ずいぶん、ブログをお留守にしてしまいました。ごめんなさい。

年末進行と、いろいろ考えさせられる出来事が重なり、下書き状態の記事ばかりたまってしまっていました。

次から次へといろんな考えが浮かんできて、書こうとするんだけど、まとまらない。

そんな感じでした。哲学することをお休みしていたわけではないのですが‥‥‥。

このブログは、私が自分自身の備忘録のために始めたものなので、大目にみて、のんびりお付き合いいただければ。

 

さて、今や昨年になってしまいました、去る12月10日は、尾道のantenna Coffee Houseさんで2ヶ月に一度の哲学カフェでした。

マスターから「民主主義について考えたい」というご要望をいただいたのですが、「民主主義」ってなんだか知識量が発言力に影響を与えやすそうなテーマなので、本かゲスト付きじゃないと難しいなぁ。

ということで、二人であーでもないこーでもないと往復メールを重ねた結果、「多数決」について考えてみることに。

「民主主義」に必ずしも多数決は必要ないけど、現在の日本の民主主義のあり方を考えるヒントになればいいなと思って。

 

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2017.12.10 antenna Coffee House


 実際やってみてどうだったかというと、‥‥‥いつもの8倍ぐらい疲れました!

良い意味で。

帰ってからも、みなさんとの対話から、じわじわ気づかされることがたくさんあって、びっくりしました。

 

結果的には大満足の回。

しかし、対話中もお伝えしたように、開始から1時間20分は、けっこうもどかしい気持ちが続きました。

 

「クライアントに『社内で多数決して決めました』と言われると、『本当にそれがいいって思ってるの?』と思ってしまう」

「多数決は無責任だと思う」

「全員合意が理想かもしれないけれど、多数決なら限られた時間で決められる」

「最初から多数決で決めようとする場合と、満場一致で決めようとしたけど時間がないから結果的に多数決になってしまったという場合は、違う気がする」

「リーダーが決めて、みんながそれに従うっていう方法もあるけれど‥‥‥」

「どっちでもいいことは、多数決でもいいんじゃない?」

「でも、命や人権に関わることは、多数決で決めたらダメ」

「歴史から学ばないと」

 

気になる発言はいくつも出ているのに、まだその奥に核心に迫るなにかがありそうなのに、なかなか触れられない、言葉にできない、そういうもどかしさです。

そのときは、何が足りないのか、どうすればその核心に触れることができるのか、わかりませんでした。

 

「どっちでもいいことと、そうでないことはどう見分ける?」

「何が命や人権に関わることで、何が関わらないことなのか、誰がどうやって判断する?」

「歴史から学ぶべきことってなんでしょう?」

 

などなど声かけもしてみるものの、ヒットはせず、空振り。

 


あとからふりかえると、私にとってあの1時間20分は、織物でいうとひたすら縦糸を張っていくような時間だったな〜と思います。

横糸が見つかったのは、最後の40分。

少数派(マイノリティ)の話題からでした。

 

「多数決って、少数派の意見がなかったかのように消えちゃうのがイヤだ」

「いや、絶対与党にならないだろうという党に投票する意味がないわけじゃない」

というやりとりのあと、それまで黙って聞いていたある女性が、

「少数派といえば、同性婚ってどう思います?」

と投げかけました。

そして、この投げかけが様々な立場の違いを浮かび上がらせてくれました。

あとからふりかえると、それはこの「同性婚」という例が「当事者性」を孕んでいる問題だったからのような気がします。

 

私自身、「同性婚だけじゃなく、複数婚(3人以上の婚姻)もありじゃないかと思っている」という発言に自分の想定の狭さを思い知らされたり、「法律で認める必要性は?事実婚じゃダメなの?」という疑問に「そうか、何にどう困るか説明しないとわからない人もいるのか」と気づかされたり。

そして、異性愛者と同じように、同性愛者のなかにも事実婚を望む人もいれば法律婚を望む人がいること、事実婚だと扶養や相続の問題が発生したときに困ることがあることを説明しながら、「多数決の問題からマイノリティの問題に脱線しちゃってないかな?」と不安を覚えはじめたころ、ひとつ重大な問題に思い至りました。

 

 

「そうか多数決って、たいして意志をもっていなくても、投票できちゃうんだ!」

 

特にマイノリティの抱える問題は、単に議論における少数派というだけでなく、どんなときに誰がどんなふうに困るのか、知らない人が多い。

詳しく知らなくても、「どっちでもいい」と思っていても、「多数決」という土俵では、あたかもそれが自分の意志であるかのように票を投じることができてしまう。

その大多数の票が、少数の人生を大きく左右してしまう。

かといって、私たち全員が全ての社会問題について詳しく知り、自分の意志をもつことなんてできるだろうか?

 

そう気づいたとき、その気づきが横糸となって、前半張られた一本一本の縦糸の意味が一気に見えてくるような気がしました。

 

なぜ、「本当にそれがいいと思ってるの?」と思ってしまうのか。

なぜ、多数決は無責任に感じてしまうのか。

なぜ、多数決だと短時間で簡単に決定できちゃうのか。

なぜ、満場一致やリーダーによる決定のほうが信頼できるのか。

なぜ、最初から多数決で決めようとする場合と、満場一致を目指す場合とで、人々の態度がちがってくるのか。

なぜ、何を歴史から学ぶべきか。etc...

 

すべて、「たいして意志をもっていなくても、意志のあるように振る舞えてしまう」という多数決の特徴に起因するなぁ、と。

 

以前から関心をもってきた問題について、「多数決」という切り口から新たな発見もありましたし、他にも細々と見解の相違からくる発見がたくさんありました。

参加者のみなさんは、もしかしたら、私とはまた別の関心から別の論点が印象に残ったかもしれません。

噛めば噛むほど味わい深い、スルメ回だったと思います。

 

お付き合いくださった参加者のみなさん、テーマづくりに粘り強くつきあってくださったマスター、ありがとうございました。

 

【おまけ】

一応、開始前にこんな本も読んでみました。

多数決のやり方にも色々あることがわかって、おもしろい!

哲学カフェの参考にはならないけど、教養として一度は読んでおきたい(岩波新書にしてはわかりやすいから、一度読めば理解できる)一冊。

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

 

 

哲学カフェ「“つながり”と“しがらみ”のちがいは?」@バード2006

最近、改めて思うのですが、哲学対話のふりかえりは、哲学対話とはまたちがった集中力が要りますね。

私、哲学対話は、よっぽど体調が悪くないかぎり(それこそトイレに歩いていけないぐらいじゃなければ)いつでもできるんですが、ふりかえりはある程度心身のコンディションが整ってないとできないみたいです。

 

そんなわけで、ちょっと間が空きましたが、先週の12月8日(金)のふりかえり。

倉敷の美観地区にあるカフェギャラリー バード2006にて哲学カフェをしてきました。

オーナーさんにあれこれ出していただいたキーワードから、テーマは、

「“つながり”と“しがらみ”のちがいは?」にしてみました。

 

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ホットゆず茶をいただきました。器も素敵!

 

「つながり」については、先月も大阪で「人がつながりを求めるのはなんで?」を取り上げましたが、今回は、家族の話題で盛り上がるという共通点もありつつ、ちがった趣で展開しました。


まず最初に出てきたのが、年賀状の話題。この季節ならではですね〜。

「それは、“つながり”? “しがらみ”?」と尋ねたら、「両方!」という答え。

「プライベートと仕事関係で分ける」「親戚だけど、この人は仕事関係と同じデザインにしよう」「子どもの写真はあり?なし?」「この人はそろそろいいかな〜」etc...

「気づいてなかったけど、けっこう細かく相手との関係を判断してる!」ということが判明。

あと、送るときだけじゃなく、購入するときにも「親戚が郵便局に勤めてるから、減らせない」と“しがらみ”の影響があるという人も‥‥‥。


そこから、親戚の話題に。

印象に残ったのが、“しがらみ”だけ切りたいのに、きっちゃうと“つながり”も切れちゃうという話。

ある人にとっては“つながり”である関係が、別の人には“しがらみ”に感じられたり、“つながり”だった関係が“しがらみ”になりえたり‥‥‥。

そんな話題から、人によって感じ方が異なる点が二つ浮かび上がってきました。

  • “つながり”と“しがらみ”の関係は、反対か内包か裏表か?
  • “しがらみ”はネガティブだけど“つながり”はポジティブなものかどうか?

 

さらに、前半のやりとりを振り返りつつ、こんな論点も。

  • 自由と“つながり”や“しがらみ”との関係は?
  • つながりによって、“自分”の範囲も変わるのでは?
  • どういう状態なら“つながってる”って言える?

 

後半は、家族の話題が中心で進みました。

出産という経験や血のつながりに家族の“つながり”を感じる人、日々の暮らしに家族のつながりを感じる人、「家族のつながり」といっても人によってイメージは様々。
そして、家族というつながりの特有さに言及する発言がたくさん出たのですが、そのポイントが浮かび上がるほど、「家族以外のつながりにも当てはまりそう」とも感じられ、不思議な感じがしました。

いつか倉敷で「家族ってなに?」というテーマも取り上げてみたいな。


次回、倉敷の哲学カフェは、あきさ亭で開催します。

テーマは「ゆとりって必要?」。

大学の後輩にあたる佐々木大輔さん(大阪大学文学部学生)にメイン進行をお願いします。
詳細は、こちらをご覧ください。