あけましておめでとうございます。
2025年の哲学カフェはじめは、1月5日。
岡山市内でやってる哲学カフェはいろいろあるけど、公民館のも福祉施設のも子育てスペースのも平日なので、土日に参加できる哲学カフェが案外ないなぁ。
ということで、岡山のNPOセンター、通称「ゆうあいセンター」の貸部屋を借りて自主企画しました。
テーマは「どうして人は怒るのか?」。
土日開催を希望されていたNさんのご提案。
体調不良によるキャンセルも何件かあり、私も含めて5名と少人数での開催になりましたが、学びの多い対話でした。
- 怒りの基準
- 怒り以外の方法(話し合い、指導、愚痴)
- 怒りと我慢、理解の関係
- 怒りと力関係
- 怒りが与える恐怖心
- 「瞬間湯沸かし器的な怒り」と溜め込まれた怒り
- 怒りとイライラ
- もし誰も怒らない世界があったら?
- 植物は怒るか?
- 怒りを伝える覚悟
などなど語り合うなかで明らかになったのは、職場や家庭での身近な怒りから、社会運動やテロに通じる怒りまで、あらゆる怒りに共通しそうな構造。
瞬間的な怒りであれ、長年溜め込まれた怒りであれ、度重なる不快があり、耐え難き関係を変えようとする破壊のエネルギーが、怒りとして表出されるということ。
いつも穏やかな話し合いで解決すればよいけれど、相手が真剣に耳を傾けてくれなければ、それも叶わず。怒るという仕方でしか、伝わらないこともあるということ。
そのなかで、「もしも誰も怒らない世界があったら?」を想像してみると、決して平和な世界ではなく、各自がやりたい放題の秩序なき世界になりそう、という指摘があったのも、興味深かったです。
怒りは、社会関係や秩序と切っても切り離せないものなのかもしれません。
ただし、その怒りの基準が他の人にとっても妥当かどうかはわからない。
怒りは、正義ではなく不快から生じるものだ、という説も、同時に覚えておくべきでしょう。
人生には、関係性を変えるために怒るべきもある。
その怒りの結果生じるのは、新しい関係なのか、関係の消滅なのか‥‥‥。
怒りの表出の仕方によっても変わってきそうなので、今年は自分に合う怒りの出し方についても考えてみたいな、と思いました。
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岡山市内で土日の哲学カフェ、今後もできれば2ヶ月に1回くらいのペースで、なんとか機会を見つけて開催したいなと考えています。(2025年の目標です)
そして、たまに哲学カフェとは異なるかたちの哲学企画も。
来週1月13日(月・祝)には、南方の素々長屋(しろしろながや)で、「てつがく絵本ワークショップ」を開催します。
絵心も画材も不要なので、ご都合があえばぜひ気軽にご参加ください。