9月8日はスロウな本屋さん主催の、オンラインえほん哲学カフェでした。
『もし、世界にわたしがいなかったら』を読んで、語り合いました。
子ネコのようにやわらかいこともあれば、アラスカの冬のように厳しいこともある。愛を伝えることもあれば、傷つけることもある。ひとりのわたしが消えると、ひとつの文化が消える。そんな「わたし」に「あなたが大人になるころには、たくさんのわたしがいなくなっているでしょう」と言われたら?(えほん哲学カフェ 案内文より)
広報準備段階で、ネタバレせず呼水となる案内文をどう作成するか、苦心した回でした。
以下、ネタバレご容赦ください。
最初に日本語タイトルを見たときは、独我論という哲学の有名な問いを扱った絵本なのかな?と思いました。
でも、中身を読むと全然ちがうし、英語タイトル(原題?)も、“What makes us human(私たちを人にするもの)”と全然ちがったんですね。
日本語タイトルの「もし、世界にわたしがいなかったら』は、「わたし」が誰か読みながら推理していく楽しみを引き立ててくれるし、ユネスコ「先住民言語の国際の10年」(2022-2032年)の公式選定絵本という趣旨にも沿ってる気がする。
一方の英語タイトルのほうは、この絵本の根底に流れる作者の思想を反映したものと言えるかもしれません。
そして、この英語タイトル“What makes us human(私たちを人にするもの)”に関わる点が、今回のえほん哲学カフェのなかで最も大きな争点となりました。
直接、論争をよぶきっかけとなったのは、こちら。
わたしがいるから、人は人になる。
(『もし、世界にわたしがいなかったら』)
この絵本の語り手「わたし」はどうも言葉らしい。そして、たしかに、私たち人間は言葉によって形づくられている側面がある。そういう意味ではとても説得力のある言葉です。
でも、イルカもコミュニケーションはとっている。人間の言葉を理解している犬もいる。そういう意味では、言葉をもっているのは人間だけとは限らない。「言葉があるから、人は人になる」、「私たちを人にしているのは言葉だ」と言えるのだろうか?
同じページについて正反対の感想。しかも、どちらも説得力がある。
そんなわけで、この日はずっとこの問いを中心に、あるいは頭の片隅に置きつつ、みなさんの声に耳を傾けていました。
- 岩に描かれた象の絵も言語と言えるか?
- 他の文化を尊重するとはどういうことか?
- 母語話者とそうでない人の間に生まれる力関係
- なぜ家族の言葉は軽視してしまうのか?
などなど、語り合ううちに、「ああ、そうか!」と腑に落ちたのは、他者が使う言語を言語として認めることは、その言語が根差す文化の存在を認めることだということ。
そして、相手の言語を言語として、相手の文化を文化として認めることが、相手を人として、あるいは人に匹敵する存在として、尊重することなのではないかということ。
文字があろうがなかろうが、馴染みのある響きだろうがそうでなかろうが、意味がわかろうがわかるまいが、相手の言語や文化を、自分の言語や文化と同じように大切なものとして扱うこと。
「イルカも犬もコミュニケーションをとっている」と感じるとき、私たちはたぶん、イルカや犬も、人間に匹敵する文化的な存在として尊重しているのだ。
とすると、この絵本のなかの「人は人になる」は、生物学的なホモサピエンスではなく、文化的な存在として承認されることを指しているのではないか。
そんなふうに感じました。
対話の中でも出たとおり、言語は文化の全てじゃないし、文化のなかには言語以外のもののたくさんある。
それでもやっぱり、言語は文化と切り離せない。
文化は言語的なものとは限らないけれど、言語は必ず何かしらの文化と結びついている。
言語をツールとしてのみ捉えると、世界中の言語を一つに統一しちゃったほうが効率的でいい気がするけれど、言語の文化的側面に注目すると、決してそうじゃない。
一つの言語が失われると同時に、一つの文化が失われてしまうとしたら‥‥‥。
この絵本の帯には「言葉についての哲学絵本」と書かれていたけれど、対話をとおして私が感じたのは、「言葉を通して文化について、文化を尊重するとはどういうことか、考えられる哲学絵本」でした。
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10月のフラワー読書会では、また別の角度から言葉に迫ることができそうです。
こちらはこちらで、学生時代からずっと考えたきたこと、いわば専門分野に隣接する内容なので、めっちゃ楽しみ♪
ご都合のあう方は、ぜひ!!!!ご参加いただけるとうれしいです。