3連休の初日、1月9日は、さんかく岡山主催のオンライン哲学カフェでした。
さんかく岡山とは、岡山市男女共同参画社会推進センターのこと。
「さんかく」は△ではなく、「参画」です。(ひらがな、かわいくて好き。)
今回は、岡山市にパートナーシップ制度ができたことをきかっけに、「家族」について考えるシリーズ「かぞくってなんだろう。」の一環で、岡山市民が対象。
なんと、さんかく岡山さん初のオンラインイベント!だそうです。
これまでにも何度か「家族」をテーマに哲学カフェをしたことはありますが、今回は特に、家族と社会の関係について考えさせられる対話となりました。
前半、家族に関する疑問や悩みを話すなかで「家族と世間体」というキーワードが浮かび上がり、家族と社会の関係について様々な視点からの声。
「普通の家族」という呪縛
「世帯」という単位
家族の責任
「家族的」な存在
特に「家族の面倒は家族がみるべき?」をめぐっては、
「社会の制度(仕組みは)家族の面倒をみることが前提となっている」
「世話したければする、したくなければしないでいい」
と意見が衝突するシーンがありました。
そこで、そのおふたりの「“家族である”とはどういうことか?」を解きほぐしてみることに。
と同時に、「家族じゃなくても、家族的な人がいればいい」という見解を述べてくださった方の「“家族的である”とはどういうことか?」も確認してみました。
そこから浮かび上がったのは‥‥‥
ただ戸籍として登録されているという意味の家族、
様々な社会的な制度(仕組み)の前提とされている家族、
信頼や思いやりでつながる家族的な存在。
「家族」と聞いて思い浮かべるイメージの多様さを実感すると同時に、
様々なお話をうかがいながら、「戸籍や世帯として登録された家族以外にも、助け合える制度や関係はあったほうがよい」という点では考えが一致していることを確認しました。
今回の企画のきっかけとなったパートナーシップ制度は、法律的に結婚できない同性パートナーも社会の様々な場面で家族として扱ってもらえるようにとできたもの。
でも、パートナーシップ制度を利用したとしても、戸籍として登録された夫婦ほど社会的に関係が保証されているわけでもありません。
そういう意味では、まさに今回確認した「家族」と「家族的なもの」のあいだにある制度かもしれません。
わたしは、同性婚が法的に認められていない現状を考えると、この制度はないよりあったほうがいい(マシ)と思っています。
が、みなさんのお話をきいて、この制度が「家族のことは家族でなんとかしろ」というプレッシャーに加担することにならないようにしたいな、とも思いました。
ご参加くださったみなさん、さんかく岡山のみなさん、ありがとうございました。