オンライン哲学相談、今週のご予約は埋まりました。
今日はこれから、オンライン哲学カフェの打ち合わせ。
それにしても、オンライン哲学カフェをしようとして改めて、これまでやってきた哲学カフェについて見えてくることがありますね。
哲学カフェのlocalitiesというのもそのひとつ。
哲学カフェをプログラムのようなものとして捉えると、場所なんてアクセスがよけりゃどこでもいいかもしれない。
けど、私の場合は、ごく一部の自主企画を除いて、あのカフェであのマスターと、あの本屋であの店長さんと、あの福祉施設でそこに通う人たちと‥‥‥場所とそこで生きる人がセットになってて、その人とその場所に必要とされる哲学をと模索してきた。
哲学カフェは、わたしなりの臨床哲学を実現するための媒体なのだ。
それはつまり、個別性とかlocalitiesを大事にしてきたってことでもある。
〈臨床〉はひとが特定のだれかとして他のだれかに遇う場面である。〈臨床〉には、そのかぎりで、遇われる他者の偶然性ということが含まれる。〈臨床〉においては、じぶんが他者を選ぶのではなく、他者とそこで遇うのだということ、この偶然性のなかで生成する社会性というものを、《臨床哲学」は視野の中心に置く。(鷲田清一『「聴く」ことの力:臨床哲学試論』)
だから同じようなことをやってるように見えるかもしれないけれど、曜日、時間、テーマ、定員、ドリンクの提供方法、料金、席の配置、コミュニティボールを使うかどうか、そもそも哲学カフェをするのかどうか、等々、その都度、そこで生きる人たちと相談して場に合わせてアレンジしてきた。
こうした方法主義批判をもっと単純なことばでいいかえると、なにかを「哲学的」に考えようとするとき、まず方法をきちんと決めてから、というやりかたに制限をくわえなければならないということである。方法は、ある意味では対象のほうがいわば強いてくるものだ。あるいは、対象との接触のなかではじめて見えてくるものである。対象にかかわる前に方法があるわけではない。(鷲田清一『「聴く」ことの力:臨床哲学試論』)
場がオンラインに移ったとき、この個別性やlocalitiesはどうなる?
もともとWebで告知せずクチコミでやってきた活動については、人的ネットワークがlocalitiesを保持してくれるだろう。
けど、Webで開催情報を流してきたものは、情報の出し方を気をつけないと。
地元の人のためだったはずの哲学カフェに、遠方から来た人がちょこっと混じってるのは新鮮でいいけれど、ほとんど地元の人がいないというのは困る。
たぶん、私の本当の課題は、「オンラインで哲学カフェができるか」ではなく、「オンラインで現場へ行って(?)現場の人と哲学できるか」にあるのだろう。
というわけで、オンライン哲学カフェの開催情報については、出したり出さなかったり、主な対象者とそれ以外の人とで告知のタイミングをずらしたりすることもあると思います。あしからず、ご了承くださいませ。
わたしが持ってるのはTBSブリタニカ版ですが‥‥‥