2年前、こちらの哲学カフェに参加してくださった新聞記者さんに‥‥‥
‥‥‥取材を受けました。
「事実婚じゃダメなの?」「通称名使えばええやん」という疑問に、私の経験からお答えしました。
持病のところは若干ニュアンスが大袈裟な気がしますが、(読者にわかりやすくと意気込むあまり、問題をわかりやすくすり替えてしまうメディアも少なくないなか)とても丁寧に取材してくださいました。
婚姻届を出す前は、姓の変更に煩わされるのは、ほんの一時のことだと思っていました。
まさか、新たなご依頼を受けるたびに、税金に関する手続きをするたびに、街で人と会うたびに、「私が今ここで名乗るべき名前はどっち?」、そう確認しなければならなくなるとは!
決定的に生きていけないほど困るわけではない。
けれど、日々の暮らしのなかでじわじわ積もる煩わしさ、もどかしさ、不安。
特にこの取材を通して気づかされたのは、ひとつひとつの作業の煩わしさ以上に、「周囲にいちいち確認の手間をとらせて申し訳ない」という後ろめたさや、「私を私として認識してもらえるだろうか?」という不安を絶えず抱え続けなきゃいけないという心理的負担が大きいということです。
そして、それを夫婦のどちらか一方が担わなければならないという違和感。
憲法で、婚姻の事項については両性の本質的平等に立脚してって定められているはず。
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。(日本国憲法 第24条)
なのに、なぜ、平等に生きようとする夫婦に不平等を持ち込む法律が存在するの?
また、記事を知人から、「大手銀行では通称名での口座開設ができるようになっている」と教えてもらいました。
知らなかった!
これ、うれしい人もいるでしょう。
しかし、口座を旧姓=通称名でつくれるようになっても、結局税金関係の手続きは戸籍姓でしなきゃいけないんですよね。
銀行にやんや言う前に、政府自身が配慮してくれないかなぁ。なんだかなぁ。
記事にもあるように、私はどちらかというと夫の姓が好きです。
そもそも、自分の姓にそれほど拘りもないし。
でも、婚姻前に築いてきた関係や実績も大事にしたい、そう思ったとき、夫の姓を名乗って仕事や活動をするのは失うものが大きすぎると感じました。
だって、もしこのブログのタイトルが「みよしえりのてつがく日誌」だったら、このブログを書いているのが神戸や大阪で哲学カフェをしていた私だと気づいてくれる人なんて、一体何人いるでしょう?
そもそも名前って、私の名前だからといって私の自由になるものじゃない。
相手に私の名前だと認識されて、相手に呼ばれて、はじめて「名前」として機能するもの。
社会のあり方が変われば名前のあり方も変わらなきゃ。