てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

「運ってなんだろう?」@高島公民館

本日は岡山市立高島公民館の哲学カフェ、ふたばトークでした。

 

久しぶりの和室。

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脚がつらくないように、別室から椅子と机を運んできました。

(コミュニティボールが使えたら机はいらなかったんだけど、コロナ禍でボールを使えないのと、以前、机がないと落ち着かないという声もあったので。)

 

テーマは、5月に取り上げる予定がコロナの影響で運悪く(?)流れてしまった「運ってなんだろう?」。

 

占いの話からはじまり、遺伝や生まれた環境、宝くじ、偶然通りかかってた人に助けられた人の話、自然災害などを例に‥‥‥

 

  • それって運なの?
  • どこからどこまでが運?
  • 運は切り拓くもの?それとも変わらないもの?
  • 運は本当にある?それとも捉え方次第?

などなどの論点を行ったり来たり。

 

同じ「運」という言葉でも、偶然性、運命、運勢、バイオリズム、エンタメなどなど、いろんな捉え方があるし、そもそも運なんて全然気にしないという人もいて、おもしろい。

 

途中、自分を受け入れることや、「生かされている」という感覚との関係などにも話題が及びつつ、「運」の構成要素や、運を運たらしらめているもの、なぜ「運」という言葉を使うのか(あるいは使わないのか)について考えました。

 

わたしは最初、「これは運やろ!」と思う例がいくつかあったのですが、捉え方次第派の意見をきくうちに、「自分が運だと思いたいだけかも???」と迷いが生じてきて、聞けば聞くほどわからなくなってきました。

全部かどうかはわからないけれど、少なくともいくつかの例については、運だと思いたい自分がいるような‥‥‥。

逆に、何かしらの意味を見出したいから、単なる運(ラッキー/アンラッキー)だとは捉えたくないという人も。

 

なぜ、運だと思いたいのか?

今度、運がいいとか悪いとか思うことがあったら、考えてみよう。

 

ご参加くださったみなさん、高島公民館さん、ありがとうございました。

「これって個性?」@大元公民館

ちょっと一息ついてからふりかえろう、と思ったら、あっという間に時間が過ぎちゃう今日この頃です。

9月16日(木)の午前中は、大元公民館で子育てモヤッとニコッとカフェでした。

今回のテーマは、「これって個性?」。

 

前半は、

  • 障害は個性?
  • 個性はあったほうがよい?
  • 個性は先天的なもの?後天的なもの?

という論点を行きつ戻りつしながら、

中盤に、

  • 個性は唯一無二のもの?
  • 安心はどこから?(カテゴライズされることによって安心するのはなぜ?)

という論点も加わりつつ

終盤は、そこから湧き上がった疑問

  • “個性”という言葉をわざわざ使うのはなぜ?(みんな異なる特性をもってるなんて当たり前なのに、なぜわざわざそれを言葉にするの?)

に集中する展開。

 

 

いろんな問いをめぐるなかで明らかになったのは、

「障害」も「個性」も、なにかしらの効果や作用を狙って使う言葉じゃないかということ。

「障害」という言葉を使うことによってサポートが受けられたり、

「個性」という言葉を使うことによって変わることを強要されずにすんだり。

「障害」と「個性」、どちらも変えようと思っても変わらない特性を指す言葉だけど、どんな効果を狙うかによって、使う言葉は変わってくるかもしれない。

 

今回の対話のなかで出たように「個性を大事にしよう」なんてわざわざ大袈裟に言わなくても、なにかしらの個性はみんなあるだろうし、「個性」や「障害」なんて言葉をわざわざ使う必要性を感じない人もいる。

けど、その一方で、「個性」や「障害」という言葉に救われる人もいる。

 

 

終了後、このテーマは子育てに以外の場面にも関わるけれど、子育ての場面ではよりリアリティをもって迫ってくる場面が多いテーマなんじゃないかな、とも思いました。

すでに成長した大人に接するぶんには、「ああ、この人はこういうの苦手なんだな。じゃあ、これを任せるのはやめて、得意なことを任せよう」ですむかもしれない。

けど、なにもできない赤ちゃんから子どもを育てるときは、現時点の「できる/できない」で判断せず、将来の伸び代も見越して、チャレンジする機会を与えたり、成長を促す必要がある。

いまはできなかったり嫌いだけど、チャレンジするうちにできるようになったり、好きになったりする可能性もある。

だからこそ、「これが苦手なのは、この子の特性なのね」とひいてしまってよいのかどうか迷うんじゃないかなぁ。

個性を大事にしようとして、「この子はこういう子だ」と決めつけてしまうというリスクもありそう。

 

そうおもうと、今回の対話の終わりに確認された捉え方はちょうどいいのかもしれません。

「個性を大事にしよう」なんて大袈裟に考えるのではなく、「これがこの子の個性だ」と大仰に捉えるのではなく、そっとしておいてほしいときは「個性」という言葉を使い、サポートが必要なときには「障害」という言葉を活用する。

それぐらいの軽やかさで。

 

でも、その言葉に救われる人もいるということも忘れずにいたいな。

 

 

ご参加くださったみなさん、大元公民館さん(今回はいつもお世話になっているふみちゃんが研修だったので、むーさんがお付き合いくださいました)、ありがとうございました。

 

 

「平等は、どこまで必要ですか?」@anntenna Coffee House

8月8日(日)は、哲学カフェ尾道

antenna Coffee Houseでハイブリッド哲学カフェでした。

 

14:00ごろお店に到着して、マスターと一緒にセッティング。

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その後、腹ごしらえをして‥‥‥

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(マスター特製 パストラミビーフサンド。美味)

 

15:00スタート。

テーマは、「平等は、どこまで必要ですか?」。

本当は6月の哲学カフェで扱う予定だったテーマなんですが、緊急事態宣言の影響で8月に延期に。

今回は無事開催できて、ほっ。

 

今回は5歳のお子さん連れの方もいらっしゃったので、その子に説明するとしたらなんて説明する?

3人いたら、ケーキは3等分?

幼稚園のことは園長先生だけで決めるより、他の先生の意見も聞いたほうがいいのはなぜ?

‥‥‥なんてのもヒントにしながら、

 

  • 平等と公平のちがいは?
  • 「どこまで必要」ってどういうこと?
  • 機会の平等と結果の平等、どっちが大事?

 

の3つが主な論点としてあがってきました。

 

どの論点も興味深かったけれど、今回、個人的に衝撃だったのが、わたしが「機会の不平等」と捉えていたものが、ある人には「結果の不平等」と捉えられるということ。

私は「家から通える国公立大に行きなさい」と言われたのに姉は下宿して私大に通わせてもらっていた、というわたし自身の経験を、わたしは「機会の不平等」の例としてあげたつもりだったのですが、「それは結果の不平等なのでは?」と言われて、混乱。

哲学カフェから1ヶ月以上たった今でも、「果たしてあれは、機会の不平等なのか、結果の不平等なのか?」と答えが出ぬまま、ぐるぐるしています。

まだ答えは出ていないけれど、これは、なんだかものすごく大きな発見のような気がする。

わたしは「機会を与えてもらえなかった」と感じてきたし、親は機会を与える存在であって結果を与える存在ではないと思っていたけれど、親とっては、なにかしらの「結果」の問題だったのかもしれません。

 

こうした捉え方のちがいによって、「どこまで必要?」の答えもかわってきそうですね。

 

自分がずっとモヤモヤしてきたことに直結するテーマだったので、後半、ずいぶん、わたし自身が参加者として参加してしまいました。

しかし、わたしが家族の問題を考えるうえで、革命的な回となりました。

 

ご参加くださったみなさん、antenna Coffee Houseさん、ありがとうございました。

 

 

さて、次回の哲学カフェ尾道は‥‥‥

10月10日(日)の15:00から。

テーマは「“わからない”って、どういうこと?」です。

第30回ということで、哲学カフェにも関わりそうなテーマにしてみました。

「“わかる”ってどういうこと?」はどこかで考えたことがあるけれど、“わからない”をテーマに取り上げるのは初めて。楽しみです。

 

イベントページはこちら。

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