てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

『まともがゆれるー常識をやめる「スウィング」の実験」』

久しぶりに、ケアを考える会にオンラインで参加。

こちらの本を読みました。

 

まともがゆれる ―常識をやめる「スウィング」の実験

まともがゆれる ―常識をやめる「スウィング」の実験

  • 作者:木ノ戸昌幸
  • 発売日: 2019/01/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

京都の障害福祉NPO法人「スウィング」に集う、障害を持つ人・持たない人たちの「できないこと」にこだわらないエピソードと、脱力しきった詩の数々。
誰かが決めた「まとも」を見つめ直し、ゆらしたりずらしたりすることで、それぞれの生きづらさを緩めるヒントとなる一冊。

amazonの商品紹介文より)

 

障害福祉に関心がある方だけでなく、ちょっと肩の力を抜いて生きたい人にもおすすめの一冊です。

 

「圧倒的に良いことを押しつけがましさのない活動に変えること」、そして「誰でもできる単純作業を魅力的な活動に変えること」。これら2つの課題をクリアにするため、試行錯誤の末に勝手にこしらえたローカルヒーローが「まち美化戦隊ゴミコロレンジャー」である。 (『まともがゆれる』Kindle版No.189)

 

ゴミが多ければ「一体どうなってるんだ!?」と憂き世を嘆き、ゴミが少なければ「拾うもんないやんけ!」と理不尽に毒づき、どっちにしたって元気ハツラツぶーたれながら、我らゴミコロレンジャーの戦いは果てなく続く。 (『まともがゆれる』Kindle版No.216)

 

ゴミが多くても少なくてもぶーたれんのかい!とツッコミをいれちゃう。

参加者のKさんも言ってたように、文章が軽妙でうまいんだなぁ。

 

たぶんいつ読んでも肩の力が抜いてくれる本なんだけど、コロナできゅっと縮こまることもある昨今なので余計に、このゆるさが心地いい。

 

そして、なんか生きるうえで覚えておきたい言葉がいっぱい。

 

人間はちゃんと、失敗するようにできている。(『まともがゆれる』Kindle版No.418)

 

「ケツの穴の小ささ」 とは、他者に対する、ひいては自分自身に対する不寛容さと言い換えることはできまいか。(『まともがゆれる』Kindle版No.419)

 

社会通念上、愚かしいことであっても、人にはそのような行為をする自由があり、誰からもその行為を邪魔されずに生きる権利がある。これを「愚行権」と言うのだそうだ。(『まともがゆれる』Kindle版No.564)

 

そもそもこの社会の隅々にまではびこり、おそらく多くの人を苦しめている「できること=良いこと(素晴らしい)」「できないこと=悪いこと(ダメ)」という価値観って一体何なのだろう。ホント何これ、教育? マジで意味分かんない。できることはただでいるだけ、できないことはただできないだけ、良い悪いでもないし、それ以上でも以下でもない。これじゃいけないんだろうか?(『まともがゆれる』Kindle版No.656-658)

 

あと、「障害者アート」という言葉に対する違和感の正体。

私も以前から違和感を抱いていて、本書の指摘にすっきりしました。

 

「『障害者やのに』って感じがするからじゃないですかね」(『まともがゆれる』Kindle版No.958)

 

つまり「障害者アート」って、「スイーツ男子」とかと同じ種類の言葉なんだなぁ。

偏見ありきの言葉。

それが福祉施設とか公共ので使われると、さらに違和感が増幅しちゃう。

 

そして僕たちが懸念するのは、障害者アートが隆盛するにつれ、キラキラ系イメージに上乗せされるように「障害者=優れた芸術を生み出す人」といった新たなド偏見が顕出しつつあることだ。なかにはそういう人もいれば、まったくそうじゃない人もいる。ていうかまったくそうじゃない人のほうがほとんどだ。少し想像力を働かせれば分かりそうなことだが、「それぞれが違った一人ひとりの人間である」という人類普遍の真実をついつい忘れ、大きなラベルで括ってしまいがちな思考回路は決して他人事ではない。(『まともがゆれる』Kindle版No.977)

 

「意見の違いこそ政治の本質です」

YouTubeを散歩中に見つけた動画。

 


英下院議長の“野次の諫め方”① 190201

 

ときに騒ぐ生徒に対する先生のように、ときにユーモアを交えながら、野次を諌める。

その根底にある、政治や議会はこうあるべきという信念。

 

意見の違いこそ、政治の本質です。 (ジョン・バーコウ)

 

人々の合意が簡単に得られないときこそ、まさに議会が意味をもつのです。(ジョン・バーコウ)

 


下院議長の涙のワケは?混迷する英国政治の“仕切り役”が交代

 

 

哲学カフェの進行も、信念からぶれないように。

 

共生学系zoom企画「対話と共生」@大阪大学

10月1日(木)は、母校の大阪大学からのご依頼。

人間科学研究科・共生学系の学生・教員のみなさんと、zoomで「対話と共生」について考えました。

 

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最初の1時間は、哲学対話の実践などから「対等な対話は(どうやって)実現するか?」というお題でお話させていただき、休憩をはさんで、後半は「共生学は“誰”のものか?」というテーマで、対話しました。

 

「マイノリティとマジョリティ」、「当事者性」、「専門性」などをキーワードに、

「“誰ものか”と“誰のためか”は同じ?」

「共生学における当事者性とは?」

「“マイノリティ性”や“当事者性”の“性”の意味とは?」

「学問における専門性とは?」

「共生とは?」

といったと問いをめぐって対話が展開。

“誰のためか?”でも“何のためか?”でもない共生学のあり方、当事者性をもつ人が共生学を行う意味、専門家として共生学を行う意味などが語られました。

 

抽象的なテーマに思われるかもしれませんが、共生学の現場で共生学について考えるという、現場感あふれる対話。

わたしの専門である臨床哲学と重なりそうな部分も多く、かなり刺激的な内容となりました。

 

阪大在籍16年間ずっと憧れながらもキャンパスが異なるために縁遠かった人間科学研究科*1のみなさんと、いまになってこんなふうに関われるなんて。

 

縁あってお誘いくださった方、ご参加くださったみなさんに感謝です。

 

www.hus.osaka-u.ac.jp

*1:実は大学受験のとき最後まで文学部とどちらを受験するか迷ったのですが、文学部のほうが倍率が低かったので文学部を受験しました。