いろんな方がfacebookでシェアしてくださったこちらの批判記事、
批判されてる内田樹さんの書評もあわせて読みました。
責任ある言論人として内田氏に必要だったのは、「何も知らない」ゆえに書けないないのであれば書評の依頼を断ることでした。*1
これって、まさに、わたしが“てつがくやさん”の危うさとして感じていることだ。
いろんな方がfacebookでシェアしてくださったこちらの批判記事、
批判されてる内田樹さんの書評もあわせて読みました。
責任ある言論人として内田氏に必要だったのは、「何も知らない」ゆえに書けないないのであれば書評の依頼を断ることでした。*1
これって、まさに、わたしが“てつがくやさん”の危うさとして感じていることだ。
昨日は、こちらのトークベイベントでした。
まさかの、銭湯の話題ではじまりパンツの話で終わるという謎展開。
だから、哲学対話っておもしろい!
ハタノさんの「オンライン銭湯」と称して、みんなで自宅のお風呂にはいって話すという企画は、オンラインでいかに体験を共有するかという意味でも興味深かったし、最後は「裸で話せるか」というのがメタファーとしても利いてのこちら。
自分でもはいてるつもりのないパンツがあった!(by 中川雅道/松川メモより)
哲学カフェで、立場や肩書き、見た目からくる社会的な属性をいかに脱げるか。
これは、わたしが哲学対話の実践のなかでずっと気にかけてきたことなのですが、リアル哲学カフェでは、どうしても脱げないものがある。
本人にそのつもりがなくても、無意識に年齢や性別から発言のしやすさに影響を与えてしまうことがある。
チャットのコメントで参加者にご指摘いただいたとおり、なめられているほうは「なめられてるな」と気づきやすいけど、威圧感を与えてるほうはそのことに気づきにくい(だって、本人には言いにくいもん)という不均衡さ。
その脱げないものがあるなかでいかに対等に話せるか、というところがリアル哲学カフェのチャレンジングなおもしろさだったりすると思うのですが、
オンラインの哲学カフェでは、そうした不均衡さがかなり和らぐ気がするし、工夫の仕方によっては完全に脱げるかもしれない。
そのあたりが、松川的な一番のハイライトとなりました。
ほかにも、オンラインとオフラインのちがい、オンライン哲学カフェならではの可能性と限界、参加感の謎、対話のなかでのケアとは?、結婚や夫の転勤で知り合いの全くいない土地で暮らすことになった妻にとって哲学カフェがいかにありがたい存在か、寝転びながら哲学カフェしてみたい!などなど、今後につながるヒントがいろいろ。
あと、今回の、ゲストのトークを聞きながら、参加者(リスナー?)のみなさんにコメントを投稿してもらうスタイル、「チャットのコメントが多すぎて追いきれないかも」という声もありましたが、わたしには合ってるみたい。
対話中も全部目をとおして、ヒントをいただいておりました。
チャットのなかでも、もう一つの対話が繰り広げられてるような感じも、おもしろかったです。
月末のなぞらじスペシャルライブも似たようなスタイルでやるので、楽しみです。
昨日5月23日(土)は、Ziba Platform主催でオンライン哲学カフェをお試し開催。
今回は、Zibaさんにとっても初めてのzoomを使用したイベントということで、これまでZibaさんでの哲学カフェに参加してくださった方のみにご案内し、スタッフの方も合わせて7名の方にご参加いただきました。
オンライン哲学カフェは2回目ですが、主催者・参加者がかわると、また全然ちがいますね。
5月10日の岡山大学の医療者向け哲学カフェはzoom慣れしてる方が多かったけれど、今回はあまり慣れてない方もいたので、Zibaの方が事前に参加者の方と接続確認などもしてくださいました。
テーマは、「どこからどこまで自粛すべき?」。
他に1月ごろから用意してたテーマもあったんですが、オンラインに変わったし、テーマも変えようということになりました。
(次回7月も、オリンピックに合わせたテーマを考えてたけど、変更することになりそう)
最初に、音声確認がてら、①よんでほしい名前、②自粛してること/してないこと、を一人ずつきいてみる。
日頃から、ツーリングや飲み会など外に出て楽しむことが多かった方は、本当にガラリと生活が変わったんだな〜と感じました。
その一方で、生活の潤いだったイベントがなくなったり、スーパーへ買い物に行く回数を控えるようになったりはしたけれど、普段からインドア派だったりテレワークだったりして、そんなに大きく生活が変わった気はしないという方も。
まずは、両者のギャップの大きさを感じました。
また、みなさんの話を聞いていると、新型コロナ・ウィルスの影響でしなくなったこと、できなくなったことだけでなく、新たに始めたこともけっこうあるな、と。
zoomの使用もその一つですが、消毒や手洗いの徹底と周知、布マスクの着用のほか、飲み会がなくなって奥さんと蛍を見に行くようになったという方、家族で畑仕事をするようになったという方も。
そんな話をきいていると、「自粛」という概念では狭すぎる気がする。
「自粛」にも通じるけれど、その奥にあるもっと根源的な問いで、いま考えるのによりふさわしい問いがあるんじゃないか。
そんな気がしてきていくつか提案させていただいたところ、「人はやる/やらないをどうやって判断してるんだろう?」というポイントに乗ってくださった方がいて、後半はこの問いを中心に進めました。
周りの人にどうみられるだろうという「周囲の目」や空気。
自分も感染し誰かを感染させてしまうかもしれないという恐怖。
「バイクで走ってるぶんには感染のリスクはそう高くないと思うけど、集団で走ってると周りの人から『やっぱりバイク乗りは何も考えてない』と思われるんじゃないか」
「他より早い時期からお店の消毒を徹底してはいたけれど、道行く人に『大げさ』と思われてないかと、恥ずかしい気も」
「最初は布のマスクをつけるのに抵抗があったけど、周りの人が普通につけるようになったから、自分も抵抗なくつけられるようになった」
こうした「やる/やらないの間(はざま)」のエピソードについて詳しく聞くうちに、2つほど、興味深いポイントが浮かび上がってきました。
ひとつは、「周りの目を気にすること」と「周囲の人に配慮すること」との違いと微妙な関係。
自分が周りの目を気にしてそうしているのか、周囲の人に配慮してそうしているのか、と問うてみると、「周りの目を気にしてそうしてることが多いけど、周りへの思いやりから自分で判断してできることが増えるといいなぁ」という声も。
たしかに、何もかも自分の判断で心から納得して周囲の人への思いやりある行動をとれたら、気持ちいいだろうなぁ。
ああ、でも、今回のような、なにもかもが不確かな状況で、自分で判断してって、本当に難しいですよねぇ。
そして、これを書いているいま改めて、今回の状況は、周囲の人に配慮しようとすると、周りの目を気にすることが分けにくいこともある気もしてきました。
だって、何をどこまで自粛すべきかも、消毒や手洗いをどこまで徹底すべきかも、人によってけっこう感覚がちがうから、自分が平気なことでも気にする人は気にするし、その逆もある。となると、、周囲の人に配慮しようとしたら、自然と周りの目(他者の感覚や判断)も気にすることになりそうな‥‥‥。
もうひとつ、今回の対話のなかでの大きな発見が、「やる/やらない」だけでなく、それに対する説明が重要になっているのではということ。
契機となったのは、対話の終盤15分あたりで出てきた、次のような指摘でした。
前は、掃除や消毒なんて影で見えないようにやることで、わざわざお客さんに『やってますよ』なんて言うことはなかった。けど、いまはちがう。たんに消毒をするだけじゃなく、『ちゃんと消毒してますよ』と言わないとお客さんに安心してもらえない。やるだけじゃなく説明が必要。日本にはそういう裏の仕事は黙って見えないようにやるという美学があったけれど、今はもう別の段階に入ってきてるんじゃないか。*1
今回の主催であるZiba Platformはマルイ・エンゲージメントキャピタルというNPOさんが運営してるカフェ兼コミュニティスッペースなんですが、その母体となっているのが岡山県北のスーパー、マルイさん。
そのマルイグループの若手さんとベテランさんのやりとりからこの発見がでてきたので、スーパーの店舗を想像しながらきいてたんですが、本当にそのとおりだな、と。
今回のウィルス禍は、これまで説明を求められなかったことに説明が求められるようになったり、説明するところまで含めての配慮が必要になったりする出来事だったんだなぁ。
「どこからどこまで自粛すべき?」という最初のテーマからずいぶん離れた気もするけれど、最初のテーマの根源に遡りながら、かつ最初のテーマ設定の際に見落としていたポイントを発見できて、大満足です。
次回は7月に開催したいですね〜と相談中です。
Ziba Platformでの開催になるのか、またオンラインでの開催になるのかはまだ未定ですが、決まり次第お知らせしますね。(どちらにせよ、次回は、さらにいろんな人にご参加いただけるといいな♪)
あと、Ziba Platform店内でのイベントや飲食提供はまだお休み中ですが、まちなかライブラリーは実施されてるそうなので、お近くの方はぜひ♪
*1:5月23日の哲学カフェの参加者の言葉。松川の記憶による再現なので、細かい文言は実際と異なるかもしれませんが、ご容赦ください。