まつかわえりのてつがく日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川絵里のブログです。

ハンナ・アレント『人間の条件』〜肉体的苦痛とリアリティ〜

先日、読書会でハンナ・アレント『人間の条件』の第2章を読みました。

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

 

 
読書会では、「社会」と「公的空間」のちがいや、「行動」と「活動」のちがい、「公的空間」と「私的空間」の関係などをざっくりおさらい。

家事をどう考えるか、障害と個性など身近な問題も絡めつつ盛り上がる。

 

でも、この第2章を読むたびに心を鷲掴みにされるのは、「リアリティ」に関する記述です。

激しい肉体的苦痛というのは、おそらく、公的現われに適した形式に転形できない唯一の経験であろう。そればかりか、肉体的苦痛は、私たちからリアリティにたいする感覚を実際に奪うので、肉体が苦痛状態にあるときは、真先にリアリティが忘れられてしまう。

 

ここを読むたびに、子宮内膜症で寝込んでいた日々の痛みを思い出します。

そして、医師に何度も「ちゃんと治療しているんだから、痛いわけがない」「気のせいだ」と言われたことを。

リアリティって、身体的な感覚を通してありありと感じるものだと思ってた。

けど、実際には、自分自身の肉体を通じてどんなにありありと感じていたとしても、他の人にその存在を認められなければ、妄想と同じだ。

 

共通世界の 条件のもとで、リアリティを保証するのは、世界を構成する人びとすべての「共通の本姓」ではなく、むしろなによりもまず、立場の相違やそれに伴う多様な遠近法の相違にもかかわらず、すべての人がいつも同一の対象に係わっているという事実である。(『人間の条件』p.86)

 

昨日、久しぶりに持病のことで病院に行ってきました。

残念ながら近所の病院の検査では何もわからなかったけれど、もっと詳しく検査するために、大学病院を紹介してもらえることになりました。

痛みの存在が認められた、と感じました*1

どんな痛みか、患者がありありと感じているように感じてもらえなくてもいい。こんな痛みは、むしろ、理解できないほうがいい。

ただ、医師には医師の、家族には家族の見方でいいので、一緒にこの痛みと向き合ってもらえるといいなぁ。

 

*1:追記:最初「検査ではなんともないけど、痛み止め出しましょうか?」と言われたときは、痛みの存在が認められたとは感じなかった。なにか、気休めを言われているような気がした。話しているうちに、医師がハッと何かに気づいて、痛みについて私の推測とは異なる見解を提示してくれたとき、ようやく「痛みが認められた」と感じた