カフェフィロ代表の山本さんが、最近、「哲学カフェ=ラーメン説」なるものを打ち出しているらしい。
曰く、「哲学カフェはラーメンと同じぐらい多様化しています」。
なるほど。
この説は、「ラーメンは多様である」ってことが前提になっているわけだけど、その例が「麺なしのラーメン」ってとこがいい。
この記事を読むまで、「麺なしのラーメンなんてラーメンちゃうわ!」と息巻いていたわたしも、「(ドイツでは)そもそもラーメンは『麺料理』ではなく『スープ料理』だという認識」なんて言われたとたん、及び腰になっちゃう。
なるほど、そもそも麺ありのラーメンが「パスタ入りのスープ」って感じなのかな?
じゃあ、「パスタ入りのスープ」と「スープパスタ」のちがいはどうなるの??
‥‥‥なんてギモンが次々湧いてくるわけだが、哲学カフェはどうだろう?
いろんな哲学カフェがあってもいいけれど、やっぱり哲学カフェには哲学とカフェ(=飲みもん)は必須要素、とおもってはいる。
しかし、そうは言いながら、会場の事情でどうしても飲み物を用意するのが難しかったり、あまりに味わい深い展開に「もう今日は哲学にならなくてもいいや〜」となることも、稀にある。
それはもはや「哲学カフェ」とは呼べないかもしれない。
けど、それでもいい。
その方がいいことも、ときにはある。
いつでもなんでも哲学カフェじゃなきゃと無条件に拘泥するのは、あまり哲学的な態度とは思えない。
「飲み物がなくても、哲学じゃなくてもいい」という判断に至るプロセスが哲学的であれば、〈てつがくやさん〉としての役割は果たせてるのかなとおもう。
けど、その判断に至るプロセスや理由に一片の哲学もなかったら、さすがに〈てつがくやさん〉は名乗れないだろうなぁ。