てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

日程調整は、Jリーグ待ち〜ワークライフバランスの実現〜

Jリーグの日程が発表されました。

 

www.fagiano-okayama.com

 

我が家ではファジアーノ岡山のホーム戦は現地観戦が基本なので(夫婦円満の秘訣)、これが発表されないと哲学カフェ等の予定も定まりません。

2月下旬以降の日程調整を待ってくださっていたご依頼者のみなさんに、さっそくご連絡。

これで、あれもこれも実現に向けて動き出せるぞ。

 

ワークライフバランスを調えるには、理解ある人と仕事するのが肝要なのです。

 

 

落ち着いてふりかえりたいことがたくさん溜まっているのに、ついつい、こうして先々の仕込みに追われてしまうところは、もう少しなんとかしたいなぁ。

「松川えり展」ってなんやねんって話。

来月の哲学対話をカウントして、「毎週2回ずつか〜、少ないな」と思う。

そう、ウェブサイトなどでお知らせしている参加者募集中のイベント以外にも、施設や学校などクローズドな場で実践しているものや、対象を限定してお知らせしているものも含めると週3ぐらいは哲学対話を実施しているわたくし。

こちらで時々紹介しているフリーデザインや公民館の活動もそうだけど、それぞれ、どんな経緯でどんな目的でどんなふうに実践しているのか、紹介しきれてないのが現状。

 

そんなところに、突然降って沸いた、松川えり展。

yononaka-jsh.hatenablog.com

 

いや、松川えり展ってなんやねん!?って思いますよね。

わたしも思います。

パン屋さんのような身近な「てつがくやさん」を目指してる、まだまだ発展途上のわたしの名前に「展」がついてるのもちゃんちゃらおかしいし、「展」って言うけど、なにを展示すんねん!あんたの商品はほぼ消え物やん!って思ってます。

 

でも、ヨノナカ実習室のスミちゃんから「松川えり展をしたい」って言われたとき、おもしろそうと思っちゃたんですよね〜。

なんかね、スミちゃんが「おもしろい」と思う人にスポットライトをあてていこうという「●●展」シリーズの記念すべき、第1弾らしいですよ。

 

ちょうどこれまでの歩みをふりかえって、今後どうするか、考えてみたいタイミングだったので、いいかな、とおもって。のっかっちゃいました。

そのときはわからなかったけれどいまから思えば転機になった出来事や活動もあるし、現在大事にしているお仕事などもご紹介しながら、コロナの影響で変わってしまったお仕事のバランス(どんな仕事をどんなペースで続けていくか)を考えるのによい機会かなぁと思って。

 

光栄なことに、「仕事とお金について考えてみたい」というスミちゃんのサンプルその1にもしてもらえそうですし。

www.facebook.com

 

 

ひとまず展示内容は、以下のようなものを考え中。

  • このお仕事がお仕事として成立するまで紆余曲折あったので、なんで漫画家になりたかった松川さんが哲学の道に進んで、いったんは研究者のレールにのったはずなのに、なんで「てつがくやさん」になったのかをまとめた年表
  • 現在のお仕事ご紹介スライド
  • 影響を受けた読みもの
  • 書いたもの
  • 書かれたもの(恩師・鷲田清一からみた松川えり*1

 

でも、よく考えてみれば、“てつがくやさん”が成り立つまでの紆余曲折には、松川個人の「自分に合う仕事ってなんだろう?」という個人的な試行錯誤だけでなく、新しい仕事が職業として成り立つための社会的条件だけでなく、哲学と社会の関係の変遷なんかも関わっているわけで‥‥‥。

そのあたりも、まとめてなんらかの形で展示できればいいんだけど、どうかなぁ。できるかなぁ。

 

 

また、上記のイベント以外に、1月7日には会場で哲学教室も開催するし*2

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松川在室中は常時、てつがく占い、てつがく相談も随時受け付け予定です。

もちろん、お茶とお菓子も用意して。

 

他にもなんか思いついたら、やるかもしれません。

(来場者プレゼントとして、哲学ウォークのくじびきなんかも用意しとこうかしら?)

 

会場は、スロウな本屋さんのお向かいの素々長屋さん。

こじんまりと、でも大事なものをギュウギュウに詰め込んで。

遠くにお住まいのかたはご来場難しいかもしれませんが、お近くの方はぜひ気軽に遊びにきてください。

 

 

*1:たまに勝手に書かれてるから、こっちも勝手に紹介してやろうという魂胆です。

*2:今回は会場限定です、オンライン派のみなさん、ごめんなさい。

お得意さんから学ぶ自分の思考のクセ

何ヶ月前かなぁ。

とあるお得意さんとの打ち合わせで、こんなことを言われた。

私はそのお得意さんに「えっちゃん」と呼ばれているのだけど、

 

今日、えっちゃんに会うって思ったら、

そう思っただけで、会って話をする前に、

ずっと悩んでた問題に答えが出ちゃったんですっ!

 

きいた瞬間、「そんな魔法みたいな話あるかいっ!」とツッコミかけたけれど、落ち着いて考えてみると、ありえない話じゃない。

 

わたしも迷ったとき、

「(お世話になった哲学の)先生なら、どう考えるだろう?」

って考えるもの。

ちなみに、私には哲学の恩師が少なくとも3人いるので、3パターン思い浮かべます。

ソクラテスなら、なんて言うだろう?」

フーコーなら、どうするだろう?」

なんて考えたりもする。

たぶん、哲学者と出会うということは、そういうことなのだ。

 

そのお得意さん曰く、ポイントは、感情ではなく、理性で論理的に考えてその答えに辿り着いたということらしい。

理性を働かせるといっても、様々な働かせ方がある。

が、その人が出した答えと答えの導き方は、「たしかに、わたしだったらそう言うわ」というもので、逆にそれをきいたこちらが「わたしって、いつも、こういうふうに理性や論理を使っているのか」と気づかされたのでした。

 

自分が最初に何気なく言ってた言葉に遡って、

なぜ自分がそう言ったのか、

そのときに何をしたかったのかを掘り起こしてみたら、

解決しなきゃと思っていた問題はそもそも本当の問題じゃなかった。

自分は本当にやりたかった方向にちゃんと進んでいるということがわかった。

そんな感じ。

 

最後の本当にやりたかった方向に進んでいるかどうかは、ケースバイケースだけど、自分が何気なく言った言葉の意味を(辞書的な定義ではなく)自分のなかに探してみたり、そもそも何がやりたかったのかを立ち返ってみたり、だいたい私の思考はそうやって、積み木を積み上げるような感じではなく、地面を探りながら掘っていくような感じで(かっこよく言えば遡及的に?)進むことが多い。(論理を積み上げる派の人は、どういうふうに哲学対話してるんだろう?)

 

「「何気なく言ったこと」や「何をしたいか」は論理的じゃない、感情だ」と思う人もいるでしょう。

けど、「何気なく言ったこと」や「何をしたいか」にも、探ればちゃんと理由はある。

それを指先で糸を辿るように辿っていくと、案外、論理的だったりするものだ。

逆に、「何をしたいか」とその理由が論理の糸でつながっていないのなら、「何をしたいか」、もしくはその理由っぽく見えていたもののどちらかを、取り違えている可能性がある。

紛い物のしたいことや、紛い物の理由を取り除くために、論理の糸を辿る。

 

論理は、「何をしたいか」を蔑ろにするためのものじゃない。

論理を、「何をしたいか」を駆逐するためには使わない。

 

今後もいろんな哲学者(もちろん哲学対話の参加者含む)からいろんな影響を受けるだろうけれど、そういう哲学の使い方は続けていきたいなぁ。