まつかわえりのてつがく日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川絵里のブログです。

三人称のわたし

 もう何の流れでその話題になったのか忘れてしまったのですが、昨年5月、HOSPITALE PROJECT 知るのつくりかたというイベントでご一緒した鳥取大学の家中茂さんに、「『三人称のわたし』というおもしろい概念があるよ」と教えていただきました。

 

親密圏のポリティクス

親密圏のポリティクス

 

 

 

それからすぐ図書館で借りて読んだのですが、読書ノートがまだでした。

「三人称のわたし」という概念が出てくるのは、第1章の花崎皋平「身体、人称世界、間身体性ー親密圏の基礎を問うー」です。

美しくも難解な文章のなかで、かろうじて私が理解できたかもしれないのが、ここ。

 

しかし、たとえどんな親密な間柄であっても、相互に知りつくすことができない三人称的な他者としての「汝」があり、「我」がある。それを認めてこそ、相互に相手の固有の価値と自由を尊重する関係が成立する。その三人称的な客観性を「我」の中にも見出すことが人格的関係を可能にする。そういう意味で、私は「三人称のわたし」ということを考えてきた。(花崎皋平「身体、人称世界、間身体性ー親密圏の基礎を問うー」、齋藤純一編『親密圏のポリティクス』ナカニシヤ出版、p.8)

 

要するに、「あなたとどんなに親密になっても、あなたの知らない私も存在しますよ」ということでしょうか。(ざっくり言い過ぎ?)

こうして花崎皋平は、親密圏というものを、親子や血縁、民族などからイメージし、そこを出発点にして考察をすることに異を唱えます。

三人称関係に基礎を置かない二人称関係は、排他性と閉鎖性をもつだけでなく、上限関係になりやすい、と。

その着想を得た森有正の「経験と思想」という論文を紹介しながら、こう言います。

  

彼〔森有正〕は「日本人の経験」を反省的に考察して、「我と汝」という二人称関係が、「汝と汝」という「私的二項関係」にはまりこんでいることを批判する。「汝と汝」関係とは、向き合う二人が「我」を消去し、お互いに「汝」にとっての「汝」になる「相互嵌入性」の関係をいう。親子の関係でいえば、親にとっての子、子にとっての親という相互二人称として対応し合う排他的、閉鎖的な親密さの関係である。この関係は、三人称的他者を排除するばかりではなく、「汝」が最大限に既知であることを要求する。「汝」は「我」が知りつくしている相手でなければならず、「汝」もまた「汝」にとっての「汝」である以外の「我」を消さなければならない。(花崎皋平「身体、人称世界、間身体性ー親密圏の基礎を問うー」、齋藤純一編『親密圏のポリティクス』ナカニシヤ出版、p.7)

 

この文章を読んで、私が思い出したのがこれ。

母がしんどい

母がしんどい

 

 

現実には、二人称的関係が存在しないわけではない。

あなたが大切だから、あなたのことを全て知りたい共有したい。

そういう気持ちを抱くのは自然なことではあるけれど、それを実現しようとすることによって生じる精神的暴力を看過することはできない。

相手のなかに、私に向き合う「あなた」ではない、他の何かに向き合っている「彼/彼女」がいると同時に、自分のなかにも「あなた」に向き合っていない、あなたにとって「彼/彼女」である「わたし」がいる。

「三人称のわたし」は、どんなに親密でもそういう三人称的関係性を失ってはならないという警鐘なのだ。