てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

(ようやく)ウェブサイトをつくりました。

お待たせしました。

ようやく、個人のウェブサイトをOPENしました。

 

eri-philo.com

 

 

 

 

1年ほど前にこのブログを始めたのも、フリーランスとしてお仕事していくにあたって、個人サイトの必要性を感じたからだったはずなのですが‥‥‥

とりあえず慣れてるブログ部分から、と手をつけたブログで手一杯で、本体のほうを1年以上放置。

 

哲学カフェを依頼しようと問い合わせしようにも面識がないと連絡先がわからないもんだから、カフェフィロ事務局に問い合わせてみる、facebookでなんとか探し当てて‥‥‥などなど、ご不便をおかけしてきました。

心よりお詫び申し上げます。

今後は、こちらのcontactページをご利用いただけます。

 

まだ、infoとaboutとcontact以外はこのブログへのリンクだけ、という本当に最低限のものですが、とりあえず、プロフィールと問い合わせ先ができてよかった。

 

今後、「具体的にどんな仕事をしてるの? どんな仕事をしてもらえるの?」という疑問にお答えするためのポートフォリオ的なworksページや、てつがく仲間やてつがく友達をご紹介するlinkページを増設していく予定です。

 

フリーランスでやっていこうと大学を辞めてから、2年半。

ありがたいことに口コミでお仕事が増えていき、すぐにでも広報サイトが必要!という状況を免れてきたけれど、より広くつながり、様々な人に哲学を楽しんでいただくには、こういうのも大事ですよね。

少しずつ、残りのページの増築作業も進めていければ。

(休眠サイトにならないよう、祈っていてください!)

 

 

「『死』ってこわい?さみしい?」@高島公民館

昨日10月15日(月)は、岡山市立高島公民館の哲学カフェ、ふたばカフェでした。

 

テーマは「『死ってこわい?さみしい?」。

こちらで「死」を取り上げるのは初めてで、いつもと毛色がちがうので、みなさんが来てくださるかドキドキ。

でも、初めての方や久しぶりの方がたくさん来てくださいました!

 

やっぱり、新しいチャレンジはしてみるものですね。 

いつもの会話で出てくる話題で哲学するのも好きだけど、普段のおしゃべりでは話しにくい話題だからこそ哲学カフェで、というニーズもあるな。

と、こっそり初心を思い出しながらスタート。

 

戦争、テロ、身近な人の死、老い、病などなど、

死に関わる、あるいは死を感じさせる出来事や経験に事柄に触れながら‥‥‥

 

  • 死に意味はある?
  • 死がこわいのはなぜ?
  • こわいのは、自分の死? 大切な人の死? 死一般?
  • 自分が死んだ時、悲しむ人がいるほうがいい? いないほうがいい?
  • こわいのは、死に至るまでの過程? 死の瞬間? それとも死んだあと?
  • 死を近く感じるのはどんなとき?
  • 死ぬと、どうなる?
  • 生まれ変わりはある? 生まれ変わりたい?
  • こうなると思ってるからこわいのか? わからないからこわいのか?
  • 「困る」も「こわい」に入る? 入らない?
  • 精神的な死は、死か?
  • いつか死ぬと意識することによって、生き方は変わる? 変わらない?
  • 大切な人に会えなくなるのと、大切な人が死ぬこと、なにがちがう?

 

ざくっと出てきた切り口やポイントを並べると、こんな感じでしょうか。

抜け落ちているものもあるかもしれません。

ひとつひとつはシンプルだけど、複数の問いを行き来しながら考えることで、みなさんが抱いている様々な「死」のイメージが浮かび上がってきました。

そして、最後には「生」のイメージも‥‥‥。

 

それぞれの言葉が、それぞれの仕方で、じんわり心に残る感じの対話。

なので、争点となったポイントを挙げるのは難しいのですが、ひとつ、その独特の例えで強いインパクトを与えてくれたのが、「私の命は株式会社」説でした。

 

自分ひとりで生きているなら、自分の意志で生を終わらせることもできるけど、そうじゃない。

自分が死んだら、困る人がいる。

その人たちは自分の命の株主のようなもの。

自分の生に関わり、力を貸したりアテにしたりしてくれる存在。

死は怖くないけれど、その人たちに迷惑をかけるのはイヤ。

だから勝手に倒産=死を迎えるわけにはいかない。

 

 

‥‥‥という考え。

同じように感じている人はたくさんいそうだけど、「株式会社」に例える人は少なそう。

最初聞いたときはびっくりしたけど、聞くほどに「なるほど〜」と納得。

「自分では気づかない、意外な株主もいそうですね」など、生死について語るのを少し軽やかにしてくれる例えでした。

 

ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。

 

次回のふたばカフェは、11月22日。

テーマは、「言葉で伝わること、伝わらないこと」です。

詳細はこちら↓をご覧ください。

ふたばカフェ(秋期)

「運命を変えることはできるのか?」@antenna Coffee House

10月14日(日)は、2ヶ月に一度の尾道day♪

antenna Coffee Houseで哲学カフェ尾道でした。

テーマは、「運命を変えることはできるのか?」

 

哲学カフェ尾道 第15回【 運命を変えることはできるのか? 】

 

テーマを提案したマスターも「みんな、こういうの好きかな?」と思って提案したとい言ってましたが、参加者も「みんな、どう思ってるんだろう?」って人が多かったような‥‥‥。

「『運命』という言葉を知ったときから、まさにテーマ通りの疑問を抱いてた!」という方もいれば、「『運命』の意味は『変えられないもの』だと思ってるから、ヘンなテーマだなと思ってきた」という方も。

 

それにしても、わたしが経験してきた数々の哲学カフェのなかでも、最上級に頭がこんがらがる複雑の対話でした。

予想では、「運命を変えることができる?できない?」「運命ってあるの?」あたりから徐々に「運命ってなに?」に迫るイメージだったけど、全然ちがった!

 

 

何がどう複雑だったのかをお伝えするのが難しいのですが‥‥‥

 

  • 「反対を選んだつもりだったのに、結局こうなった。ということは、こうなる運命だった?」
  • 「右か左かの選択肢があって、わたしが右を選んだのは、右を選ぶ運命だったのか、それとも左に選ぶという運命を変えたのか、どっち?」
  • 「『運命』って、そうなることが予め決まってたというより、後から『あれは運命だった』と意味付けるものなんじゃない?」

といった「これは運命だ」という判断をいつどのようにするかという問題と、

 

  • 「『運命』という言葉で、可能性を閉じてしまうのはイヤだ」
  • 「変えられない事柄もあるとは思うけど、変えられないことばかりではない。意思をもって道を切り開いたり、もがきたい」

 といった、人生をどう生きるかという問題と、 

 

  • 「そもそも『運命』の定義って、『変えられないもの』じゃないの?」
  • 「いや、変えられないのは『運命』じゃなくて『宿命』。『運命』は変えられる。」

 という言葉の定義のズレと。

 

これらの問題が別個に順番にではなく、

「『あれは運命だった』という後付けや言い訳が成り立つのは、『運命=変えられないもの』という意味で捉えているからじゃない?」

というふうに、互いに絡みあって同時に噴出したからじゃないかなぁ、と後からふりかえると思います。

「運命=変えられないもの」と思っている人と、「運命=変えられないもの」と思ってりう人が、よくよく聞くと似たようなことを言っていたり、

「『運命』という言葉は使わない」という人と、「『運命』は変えられないもの」という人が、どちらも可能性や意志の力を大事にしているのを感じたり。

 

言葉の意味が人によって違う!というのは哲学カフェではよくあることですが、ここまで言葉の意味や使い方が掴みづらいと感じたのは初めてかもしれない。

 

さらに、「運命」は必然なのか、それとも偶然的な事柄に運命を感じるのか、

「起こった事柄がよいことか悪いことかは、人生が終わるまで判断できないと思うから、運命かどうかも途中ではわからない」、

言葉でラベリングすることの功罪、などなど。

 

まるで、エスプレッソを何杯もがぶ飲みしたような濃さ! 

 

こうしてふりかえったものは、所詮、わたしのザルのようなアタマで濾されたものにすぎないので、目の前でいくつもの発言が、互いに相反するのか補完しあっているのか、解けていってるのかさらに絡まっていってるのか、よくわからないなかを一生懸命探っていくあの醍醐味をお伝えできないのが、本当に残念です。

 

すんでのところで飛行機事故に遭わずにすんだ人の話や、マスターがただの旅行先にすぎなかった尾道でいまはお店をかまえて暮らしている話など、人生の機微を感じながらも、「運命」に翻弄され、「運命」と格闘する2時間でした。

 

ご参加くださったみなさん、おつかれさま&ありがとうございました。

 

f:id:e-matsu145:20181014144316j:plain

ここにお店があるのは運命?それとも?