5月27日(土)の午後は、Ziba Platform主催の哲学カフェ。
テーマは、「自分の意志で未来をつくることは、どこまで可能か?」でした。
参加者アンケートから選ばせていただきました。
「“可能か?”ときかれるのと、“どこまで可能か?”ときかれるのはちがうのでは」
「未来って自分個人の未来? それとも社会の未来?」
「未来を“つくる”とは? “選ぶ”とはどうちがう?」
「“意志”とは? 自分の意志は自分ででつくれるか?」
などなど、音声チェックも兼ねた1周目から、さまざまな疑問が噴出。
音楽づくり、アートとAI、夕飯の献立、空を飛ぶという人類の夢、アフガニスタンで用水路を建設した医師の話、子どもを育てるということ‥‥‥
いくつかの例と疑問を行ったり来たりするうちに、「可能でしょ」派と「不可能じゃないか」派が案外近いような気がしてくる。
そんな時間でした。
なかでも、「おぉ!」と感嘆させられちゃったポイントが3つ。
1)「未来をつくる」の「未来」とは
学童で子どもをみてる人の「子どもを育てることは、片手間ではできない」という声のあとに出てきた指摘。
「未来をつくる」というフレーズをつかうときの「未来」は、夕飯の献立のような小さな未来ではないのではないか、「未来をつくる」というときの未来は、もっと大きな、他の人たちも関わるよい未来なんじゃないか(参加者の言葉。ただし松川の記憶によるものなので正確な引用ではありません)
なるほど、「未来」単独で捉えるとそうでもないけれど、「未来をつくる」というフレーズで捉えると、その「未来」の意味はぐっと限定さるんだ!
「未来をつくる」の未来は、深いんだと気付かされました。
2)「意志」とは
となると、続く「自分の意志」に関するこんな指摘も、説得力倍増。
“意志”っていうのは、「こうなったらいいな」というようなふわっとしたものじゃない。そんな人任せなものじゃなく、「こうしよう」という強い気持ち。(参加者の声。こちらも松川の記憶メモによるフィルターがかかっており、正確な引用ではありません。でも内容は大きく間違っていないはず)
意志には、他人の声や多少の困難では揺るがない強さがありそう。
欲望や願望との違いについても言及されていたように思います。
3)生きること自体が無謀
対話開始から1時間半ぐらいたったときかなぁ、ある参加者が言ってくれたのが、これ。
そもそも、生きること自体が無謀なことをしようとしている(参加者の声。これはちゃんと紙のメモに書いてたので、正確なはず)
哲学ウォークのくじ引きに入れたいぐらい、好きな言葉です。
別の方が言ってくれたように、未来なんてほっておいてもやってくる。どんな未来でもよければ。けど、「こういう未来がいい」と思うから、人は自然にさからってあれこれしようとする。
「空を飛びたい」と飛行機をつくってしまったライト兄弟も、周囲の人に「無謀やな」と呆れられてただろうし、アフガニスタンに用水路をつくった医師も「無謀やで」と思われただろうし、私も育児サークルで哲学カフェはじめたときは先生に「無謀なやっちゃな〜」と言われし*1。
火を使うことも、農作物を育てることも、手術で病気を治そうとすることも、なんだってきっと最初は無謀だったんだろう。
未来なんてほっておいてもやってくる。どんな未来でもよければ。
けど、「こういう未来がいい」と思い描いて、私たちは強い意志で自然や常識に逆らい、無謀だと思われちゃうようなことをやってのける。
人間という生き物の無謀さって、なんて尊く愛おしいんだろう。
対話のなかで言及された、こちらの映画も観てみたくなりました。
ご参加くださったみなさん、Ziba Platformおよびマルイ・エンゲージメントキャピタルのみなさん、ありがとうございました。
次回は7月の開催を予定しています。また詳細決まり次第、お知らせしますね。
*1:某W田清一さんが言及してる「無謀な学生」は、たいてい松川のことだったりします。