「学校にできないことを学校でしよう」と活動する「なかまづくりプロジェクト」さんからのご依頼で、先週は3日連続で姫路市立水上小学校にお邪魔してきました。
1日目の3月7日(水)は、大人を対象に哲学カフェスタイルで「学校ってどんなところ?」についての対話。
水上小学校の先生や保護者のみなさんだけでなく、地域の方や、兵庫県立大学の学生団体JUMPのみなさんなど、30名弱の方が集まってくださいました。
このあとの対話からも感じたのですが、先生や保護者だけでなく、様々な大人が様々な仕方で関わっている小学校のようです。うらやましい!
「子どもの頃は、学校に行くのが当たり前と思っていた」
「学校に行くのが当たり前って、本当かな?」
という疑問から始まり、
「先生にとっては学校は職場だろうけど、保護者がそれ以上のことを期待してしまうのはなぜだろう?」
「学校にできないことを学校でやるってどういうこと?」
「地域の大人が学校であれこれやる意味って?」
と、みなさん自身の体験も交えながら、興味深い論点がたくさん出てきました。
なかでも今回の対話で様々な意見が交差するポイントになったのが、
「学校が教育の場だとしたら、教育って何だろう?」
という発言ではないでしょうか。
ここから、「教育とは、可能性を広げたり高めたりすること」という仮説が生まれ、さらに「学校で生まれる可能性もあるけれど、学校だからこその不自由さ、窮屈さもあるのでは?」、「小学校は可能性を広げることが大事だけど、中学校、高校はまたちがうのでは」と議論が展開していきました。
そのなか、最後のほうに出てきたあるご指摘が印象に残っています。
本来、学校は、家庭教育に対してオルタナティブな教育の場として生まれたはず。なのに、いつのまにか、学校がオルタナティブなものとはみなされず、学校以外のオルタナティブなものが必要と言われるようになっている。(対話する哲学 in みずかみの参加者の言葉)
‥‥‥たしかに。
学校に行くのが当たり前だと思いこんでいるのも、学校にあれこれ期待してしまうのも、学校の窮屈さも、学校がオルタナティブ、つまり「もうひとつの選択肢」というふうにはみなされなくなっているからかも。
学校とは別の教育、学校だけではできない学びを探求するの大事だけど、学校の「もうひとつの選択肢」としての意義を再発見することも、「学校」について考える何か大きなヒントになりそうです。
学習要項に基づいた教育と、それとは異なる地域の方々との交流から生まれる学びの機会、それぞれが何に対してどんな意味でオルタナティブなのか、誰のどんな可能性を育むことになるのか‥‥‥対話のなかでじっくり立ち止まるにはいたりませんでしたが、引き続き考えてみたいです。
参加者のみなさんも、(こうしたゴールもルートも設定されていない対話に、戸惑われた方もいらっしゃるかもしれませんが)それぞれ何か気づきや新たに考えてみたい疑問など、心に残った言葉があれば幸いです。
「なかまづくりプロジェクト」のみなさん、ご協力くださった水上小学校のみなさん、ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。