てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

自分の意見がない(?)発達障害

youtubeでラジオがわりに聴いてるチャンネルで、ちょっと気になるタイトルの動画を見つけました。

 


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気になる理由は、哲学カフェで、ときどきこのタイプかなと思う方に出会うから。

特に、福祉施設での哲学カフェは、参加してくれる利用者の方に無理させていないか、気になることも。

発達障害といっても様々で、「普通ってなんだろう?」「障害ってなんだろう?」と話したり考えるのが大好きな方もいれば、そういうことを話したり考えたりするのが苦手な方もいらっしゃる。

フリーデザイン岡山なんかでは、自分で参加するかどうか選べるようになっていますが、それでも、はじめてのときは何をするのかよくわからないまま参加するということもあるだろうし、苦手だけど苦手だからこそコミュニケーション力向上を目的にがんばって参加されてることもあるでしょう。

そういう方に、哲学カフェが何をできるのか、迷うこともあるわけです。

 

でも、この動画で、いろんな体験をすること、いろんな人と会話をすることが重要とあって、ちょっとほっとしました。

そのいろんな体験のなかに、哲学カフェもいれてもらえていたらいいな、と。

 

実際、哲学カフェで最初は何を言えばいいのかわからなくて(こちらからすると何を言ってもいいんだけど、その「何でもいい」がめちゃくちゃ難しいことってありますよね)一言も話せなかった人が、回を重ねるごとに、うなづきで賛同や共感を示したり、うーんと迷う姿を見せてくれたり、「ちょっとちがう」「〜かも」と少しずつ少しずつ、自分の考えを表現してくれるようになることはあって。

この動画をみて、それは偶然ではなく、ちゃんと1回1回の哲学カフェがその人のなかで糧やステップとなっているのかもしれない、と感じました。

 

とはいえ、対話のなかで無理をさせちゃって苦手意識が強まったら本末転倒。

今後も自信をもって、無理せずゆっくり実践を重ねていこう。

 

 

それから、わたしとしては、対話のなかで自分の考えを全部言えなくても、うまく説明できなくても、他の方に助けてもらいながらでもいいんだと実感してもらうことも、コミュニケーション力向上の1つとしてカウントしています。

そういう意味で、以下の動画にあるように「なんとなく」も答えにカウントしていいというのも、大きなヒントかもしれない。

 


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実際、対話のなかで理由を尋ねたら「なんとなく」という答えが返ってくること、ちょこちょこあります。

てつがくやさんとしては、その「なんとなく」の中身が気になったりするわけですが、それって別に、必ずしも「なんとなく」と最初に言った人が答えなくてもいい。

それを聴いた誰かが「そういえば、わたしもなんとなくそう思ってた!けど、改めて考えてみたらこういうことかも」と接木のようにつないでくれたりする。

それが、対話のよさでもあるし、いろんなタイプの人がいることのよさだよなぁ。

 

もちろん、接木された考えと、最初の「なんとなく」と言った人の考えが一致するとは限らない。けど、それはそれで、

「ちょっとちがう」

「ちょっとちがうんだ。じゃあ、少なくとも2タイプあるのかな?もう1タイプが気になる人は考えてみてね」

でいいし。

少なくとも、接木した人は「わたしもなんとなくそう思ってたけど、なんでそう思ったんだろう?」と考えるきっかけをもらえたわけだし。

 

 

福祉施設での哲学カフェは、「コミュニケーション力の向上」も目的の1つだったりするのですが、この場合のコミュニケーション力の向上って、必ずしも自分の意見を主張できるとか話すのがうまくなるとかそういうことじゃない。

「コミュニケーションはこわくない」

「困ったら助けてもらえばいい」

そう感じられるようになるお手伝いができたらいいなと、改めて思いました。

 

(もちろん、がんがん考えたい人には、そのお手伝いも)

『ガラスのなかのくじら』with スロウな本屋

11月6日(日)午前はスロウな本屋さん主催のえほん哲学カフェ。

今回は『ガラスのなかのくじら』を読みました。

 

 

街の真ん中の大きな水槽に住んでいるクジラのウェンズデー。このガラスのなかしか知りません。ある朝、おんなの子がやってきて、ウェンズデーに声をかけます。彼女の瞳は、とおくのとおくに見えている、静かでおだやかなあの「ブルー」と同じ色をしていて……。知らないうちに自由をまちのぞんでいる、すべての人へおくる絵本。(絵本紹介より)

 

ガラスのなかのくじら|オンラインショップ|スロウな本屋

 

 

スロウな本屋さんに紹介されたときから、絵も内容も大好きな絵本だなぁと思ったのですが、今日、みなさんと語り合って、ますます好きになってしまいました。

もしかしたら、絵本のなかで一番好きな一冊かもしれない。

絵も、色合いも、物語も、言葉遣いも、なにもかも。

 

以下、ネタバレご容赦ください

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「どうして人の悪口を言ってしまうのか?」@高島公民館

昨日午前中は、岡山市立高島公民館の哲学カフェ、ふたばトークでした。

テーマは、「どうして人の悪口を言ってしまうのか?」。

 

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あれこれ話すなかで

  • どこからどこまでが悪口?
  • どうして悪口ととってしまうのか?

という問いも浮上し、愚痴や悩み相談、忠告、陰口とのちがいや共通点も浮かんだり消えたりしながら、

  • 言う側の意図
  • 受け取る側が傷つくかどうか
  • 相手の評価を下げるかどうか
  • 関係性や立場
  • 口調

などなど、悪口の様々な要件が出てきました。

 

具体的な例をきけばきくほど、同じ状況や場面で同じ言葉をきいても悪口と感じるかどうか人によってちがって‥‥‥

ああ、これこそが悪口を言ってしまう理由かもしれない。

言ってる人は悪口だとは思わず言ってる(けど言われた人や周りにとっては悪口ととる)ケースもかなり多そう

‥‥‥と感じました。

 

なかでも、私の中で対照的な印象を残した指摘が、以下の2つ。

 

1)悪口は軽い

噂話や週刊誌の例をふまえて、最後にある参加者が「わかった!悪口は軽いんだ!」と言ってくれました。

なるほど、言う方は、軽いことだと思ってるから言っちゃうんだ!って、ずしんときたなぁ。

 

2)忠告や相談事で、言葉がきつくなってしまったり、相手を傷つけてしまうこともある

こちらは対照的に言う方に余裕がなくて、「あなたの(あの人の)こういうところに困ってる!」「きつく言わなきゃきいてもらえない」という余裕のなさから、言葉がきつくなってしまったり、若干の悪意がまぎれこんでしまうケースもあるという指摘。

この点について話してくださった方も家族とのやりとりを例に出してくれたんですが、私も家族とのやりとりを思い出して、うんうんと頷いてしまいました。

相手を傷つけたいわけじゃないけれど、家族だからかやんわり言っても真剣に受け止めてもらえなくて、真剣に受け止めてもらうためにきつい言葉を出さざるをえなくなってしまう状況、どうにかならないかなぁ。

 

前回書いた『ことばのかたち』のえほん哲学カフェで、(本のなかで忠告の言葉を木の実に喩える描写があったので)「いが栗を投げつけるような忠告の言葉は投げないようにしよう。できれば栗ご飯のような言葉で相手に渡したい」と話したんですが、この哲学カフェでも、やっぱり同じことを思いました。

脱・いが栗ことば!

‥‥‥を今後1年の目標にしようかなぁ。