てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

「どうして人の悪口を言ってしまうのか?」@高島公民館

昨日午前中は、岡山市立高島公民館の哲学カフェ、ふたばトークでした。

テーマは、「どうして人の悪口を言ってしまうのか?」。

 

f:id:e-matsu145:20221101114318j:image

 

あれこれ話すなかで

  • どこからどこまでが悪口?
  • どうして悪口ととってしまうのか?

という問いも浮上し、愚痴や悩み相談、忠告、陰口とのちがいや共通点も浮かんだり消えたりしながら、

  • 言う側の意図
  • 受け取る側が傷つくかどうか
  • 相手の評価を下げるかどうか
  • 関係性や立場
  • 口調

などなど、悪口の様々な要件が出てきました。

 

具体的な例をきけばきくほど、同じ状況や場面で同じ言葉をきいても悪口と感じるかどうか人によってちがって‥‥‥

ああ、これこそが悪口を言ってしまう理由かもしれない。

言ってる人は悪口だとは思わず言ってる(けど言われた人や周りにとっては悪口ととる)ケースもかなり多そう

‥‥‥と感じました。

 

なかでも、私の中で対照的な印象を残した指摘が、以下の2つ。

 

1)悪口は軽い

噂話や週刊誌の例をふまえて、最後にある参加者が「わかった!悪口は軽いんだ!」と言ってくれました。

なるほど、言う方は、軽いことだと思ってるから言っちゃうんだ!って、ずしんときたなぁ。

 

2)忠告や相談事で、言葉がきつくなってしまったり、相手を傷つけてしまうこともある

こちらは対照的に言う方に余裕がなくて、「あなたの(あの人の)こういうところに困ってる!」「きつく言わなきゃきいてもらえない」という余裕のなさから、言葉がきつくなってしまったり、若干の悪意がまぎれこんでしまうケースもあるという指摘。

この点について話してくださった方も家族とのやりとりを例に出してくれたんですが、私も家族とのやりとりを思い出して、うんうんと頷いてしまいました。

相手を傷つけたいわけじゃないけれど、家族だからかやんわり言っても真剣に受け止めてもらえなくて、真剣に受け止めてもらうためにきつい言葉を出さざるをえなくなってしまう状況、どうにかならないかなぁ。

 

前回書いた『ことばのかたち』のえほん哲学カフェで、(本のなかで忠告の言葉を木の実に喩える描写があったので)「いが栗を投げつけるような忠告の言葉は投げないようにしよう。できれば栗ご飯のような言葉で相手に渡したい」と話したんですが、この哲学カフェでも、やっぱり同じことを思いました。

脱・いが栗ことば!

‥‥‥を今後1年の目標にしようかなぁ。

おーなり由子『ことばのかたち』

今日の午前中は、えほんやさん主催のえほん哲学カフェでした。

今回の1冊はこちら。

 

 

 

もしも話すことばが目に見えたら、あなたのことばはどんなかたち?

大きくてやわらかい? 小さくてかわいい? 針のようにとがってる?
かたちが見えたらうれしいのは、どんなことば?
愛のことば? 忠告のことば? 誰かを守るためのことば?
ことばにかたちがないから救われることもあるのでしょうか?
 
『ことばのかたち』を通して、ことばを紡ぎながら考えてみましょう。

(えほん哲学カフェ案内文より)

 

以下、ネタバレご容赦ください。

続きを読む

「視線」@フリーデザイン岡山

先週はフリーデザイン岡山で、コミュニケーション哲学カフェ。

 

テーマは…

f:id:e-matsu145:20220922162620j:image

f:id:e-matsu145:20220922162625j:image

 

これまで一度も出てこなかったけど、提案された瞬間、「なるほど、たしかにこれもコミュニケーションの問題やわ」と、これまで出てこなかったことが不思議になるくらい。

 

f:id:e-matsu145:20220922095724j:image

 

最初は、見るほうと見られるほう、別々に考えてました。

  • 相手をどれぐらい見てもいいの?、視線を合わせるのはなんのため?
  • 相手にどう見られているか、相手の視線が気になるのはなぜ?

しかし、あれこれ話すうちに、結局見る時も相手にどう見られるかが気になっているのでは?という指摘が出てきたり。*1

 

また、相手にどう見られているか、視線の意味がわからないから不安になって、あれこれ妄想しちゃうけど、「きける相手にはきいちゃえばいい」というやりとりからは、この視線の問題の所在について、発見が。

視線の問題というのは、いつでも生じるわけでもない。

相手の視線が気にならないとき、相手に関心がないときも、率直に視線の意味を言葉できける間柄でも生じない。

相手のことが気になりつつ、それを言葉できけない相手との間に生じる。

言葉の手前、言語的なコミュニケーションの手前。

そこから、言語によるコミュニケーションに移行するのはどんな場合か、興味深いなぁ。

*1:こっそりメルロ=ポンティの見るものと見られるものの両義性に関する思想を思い出したりしていました。