てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

「障がいって何?」@フリーデザイン岡山

今日は、就労移行支援施設のフリーデザイン岡山へ。

哲学カフェをしてきました。

 

テーマを募ったところ、こちらの2つが提案され‥‥‥

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それぞれの理由を聞いても、消極票を募っても、途中参加者が増えても、投票では同数で決着がつかず。

最終的に、コイントスで「障がいって何?」に決定。

 

でも、もう一つのテーマ候補「才能とは?」も

  • 障がいも才能も人と違うという意味では共通する
  • 障がいも才能も、個人的なものである一方で、社会的なものでもある
  • ある特性を、「障がい」と呼ぶのと「才能」と呼ぶのと、どう違う?

と、大きなヒントとなりました。

 

「『障がい』と呼んだ方が得する場合は『障がい』を使って、『才能』と呼んだほうが得する場合は『才能』を使えばいいのでは」という自分の都合に合わせて選べばいいと考える人もいる一方で、「才能は、社会の都合で決められる」「社会や誰かにとって都合が良ければ『才能』と呼ばれ、都合が悪ければ『障がい』と呼ばれている」と、本人の都合ではなく社会や他者の都合でそう呼ばれてしまっているという指摘も。

 

「障がい」という言葉をポジティブに戦略的に利用してやろうという人と、それでもやっぱり「障がい」という言葉に抵抗があるという人、両方いたのがよかったなぁ。

 

両方の視点から「障がい」という言葉について考えるうちに、「分けすぎ問題」が発覚。

終盤は障がいを飛び越え、ハンセン病コロナウイルス、言語、文化など、あらゆる事柄に通じる「何でもかんでも分けすぎ問題」について話し合う展開に。

 

多様性を認めることは大事だけど、何でもかんでも分ければいいってものじゃない。

多様性を認めることと、「分けすぎ」と感じることが矛盾せず両立するのはなぜか考えるなかで、

  • 分けるという行為によって違いが強調されてしまう
  • 分けっぱなしにするのではなく、分けたものをもう一度共にあるように包含する何かが必要では?

といった問題が指摘されました。

 

テーマについて考えるのが哲学カフェだけど、テーマについて考えるうちに、テーマの根っこにあるより大きな問題が発見されることもある。

そんな哲学カフェの醍醐味を感じられる時間となりました。

『ジュリアンはマーメイド』with えほんやさん

遅くなりましたが、先月のえほんやさん主催のえほん哲学カフェのふりかえりです。

今回の一冊は、前にも書いた『ジュリアンはマーメイド』。

 

tenkiame.com

 

matsukawaeri.hatenablog.com

 

事前のお申し込みがいつもより少なめだったのですが、自信をもって「参加しなかった人、もったいない!」と言える時間となりました。

参加したかったけれど参加できなかった方とは、ぜひまた一緒に読む機会をつくりたい!

 

以下、ネタバレあり。ご注意ください。

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「子どもと大人は対等?」@高島公民館

一昨日、5月30日(月)午前は、岡山市立高島公民館で哲学カフェ、“ふたばトーク”でした。

テーマは、1月に予定していてコロナの影響で流れてしまった、「子どもと大人は対等?」。

 

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親子関係ではなく、子どもと大人の関係を問いたいということで、何度か検討を重ねてこのテーマに落ち着いたのですが、テーマ提案者も「『対等?』という形(問い)でいいのかなぁ?」と迷いながらの、スタート。

  • 親にとっての子ども(いくつになっても親にとっては子ども)
  • 大人の対義語としての子ども
  • 未成年という意味での子ども
  • 精神的な子ども(大人のなかにもある子ども性)

‥‥‥と、様々な意味での「子ども」について、そしてそれらの関係について、じっくり考える時間となりました。

もしかしたら、対等かどうかに関するやりとりより、「子どもと大人の違いって?」「子どもはいつどうやって大人になるのか?」(大人になるターニングポイントがある?いつの間にか大人になる?)について話し合ってた時間のほうが長かったかもしれません。

 

いや、でも、対等かどうかについても、いくつか興味深いやりとりがあったなぁ。

  • 子どもが成長するにつれて、関係が変わる(お世話する側から、対等な時期を経て、お世話される側に)
  • 子ども料金や少年法がなぜあるのか?
  • 子どもはいつか子どもじゃなくなる。ずっと子どもでいるわけじゃないから、特権を許せる。
  • 選挙権がなくても、子どもが法律や制度を変えることはできる?

 

みなさんのお話を聞きながら気づいかされたのは、親子以外の子どもと大人の関係であっても、子どもに保護者がいること、子どもが負える責任に限界があることを無視できないところがあるなぁ、ということ。

哲学対話だって、大人の場合は本人が参加したいと思えば参加できるけど、子どもは親の許可や先生のサポートがないと難しいことも多いし。(会場へ行くにも、親に車で送ってもらう必要があったり。)

そう思うと、以前、高島公民館で実施していた夏休みフリー塾での哲学対話は、保護者や先生の許可なく子どもが自由に参加できる、レアな機会だったなぁ。またやりたい。

 

と、思わぬところで密かに公民館のすごさを感じたりもしました。

 

そして、午後からは、のびのびになっていたテーマ会議。

7月のテーマを決めるのが目的だけど、1つしかテーマが選べないのはボツが大量生産されちゃってもったいないので、秋の分も決めちゃいました。

 

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6月は、これもコロナで延期になってしまった「なぜ認められたいのか?」について考えます。

詳しい日程については、公民館だよりなどでご確認ください。