てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

対話する哲学教室の延期と、いまこの状況でてつがくやさんが思うこと

すでにお申し込みいただいた方には連絡していたので、こちらに書いてなかったけれど、昨日ヨノナカ実習室での開催を予定していた“対話する哲学教室”は、コロナウィルスの感染拡大状況を考慮して、延期させていただだきました。

 

一瞬、オンライン開催に切り替えるか?というのも考えたんだけど、前回ご参加いただいた方の様子をみると、オンラインより直接やりとりするほうが合ってる方が多そうだったので、今回は延期という選択をとりました。

 

岡山市内で感染が拡大しているといっても、岡山市も広いし、情報も少ない状況*1のなかでどうするか、判断が難しい面もあります。

同じ岡山市内での対話活動でも、地域も、会場のタイプも、対象も、それぞれ全然ちがう。

 

岡山市の中心近くにあるけれど施設内で施設の人だけを対象にしているもの、

誰でも出入り可能だけど地域的に参加者がある程度限られていたり、社会的距離社がとりやすく換気もしやすい会場のもの。

出入りする人はある程度制限されているものの、やや社会的距離がとりにくいかなぁというもの。

オンライン開催OKな方が対象で、オンライン開催に切り替えても活動の趣旨が損なわれないもの。

オンライン開催だと対象としてる方に合わなかったり、活動の趣旨が変わってしまうもの。

 

 

それぞれの活動で何を大事にしたいのか、

それぞれの譲れるポイントと譲れないポイントはなにか、

それぞれの主催者の方と改めて整理・確認する機会にもなっています。

 

だから、

「松川さん、あそこではやってたのに、なんでこっちは延期なの?」

「あっちはオンラインに切り替えたのに、なんでここは切り替えないの?」

なんて疑問もあるかもしれませんが、ご理解いただければ幸いです。

 

 

もし、わたしがひとりでわたしだけのためにやってるものなら、こうはならない。

一律の対応になったでしょう。

でも、どれもこれもわたしひとりでやってるわけでもないし、わたしだけのためにやっているわけでもない。

活動ごとに異なる対応が必要なのは、これらの活動が独りよがりなものではないという証拠なのだわ。

そう思うと、大変だけど、うれしくもあるのです。

 

*1:感染者数はわかるが、どこで感染者が出たのかの情報はあったりなかったり

「変えたほうがいいのはどんなとき?」@高島公民館

今日は岡山市立高島公民館の哲学カフェ、ふたばトークでした。

テーマは「変えたほうがいいのはどんなとき?」。

 

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「新しい生活様式」についても考えられるテーマをということでこれにしてみましたが、蓋を開けてみるとそっちの話はそれほど盛り上がらず。

地域や学校、PTAなどでの体験談がたくさん出てきました。

 

まず前半、意外だったのが、周囲に合わせるか否かの話をされる方がけっこういたこと。

なぜ今回のテーマで、周囲に合わせる/合わせないの話が出てくるのか?

変える/変わるということとどう関わるのか?

見えそうで見えない、興味深くも、もどかしい展開。

 

換気休憩を5分ほどとった後、ガラケーからスマホへの変更談もヒントにしながら30〜40分して見えてきたのは…

「変えたほうがいいのはどんなとき?」と「変わるのはどんなとき?」のズレでした。

 

①変えたくないから、変わらない

②変えたくないけど、仕方なく変わる

③特に変えるつもりはなかったけど、周囲に感化されて変わる

④変えたほうがいいから、変えてくれる(坂本龍馬のような)人を待つ

⑤変えたほうがいいから、自分で変える

 

①と⑤だけならシンプルだけど、実際はそれだけじゃない。

 

地域や学校などのあるべき姿や時代の変化を考えると変えたほうがいいこともあるけれど、一方で、変わることにはコストやエネルギーがかかることも多い。

また、これは終盤にお祭り縮小の例から出てきたポイントですが、変わることをさみしいと感じる人もいる。

 

だから「お膳立て」がないと変わるのが難しかったり、「仕方なく」じゃなきゃ変りたくなかったりするのかな。

 

自分が変わるのもエネルギーがいるけど、他者を変えるのは一層難しい。

組織を変えるのはさらに大変で、「変わらないなら出ていきます」というぐらいの覚悟がないと無理かもしれない。

実際に変わらない組織にいるのが苦しければ、そこから自分が出ていくという選択もありじゃないか。

…なんて話も。

今回は明示的な問いとしてあがらなかったけれど、このあたりは「変える」と「変わる」のちがいにも関わる考察だったのかもしれません。

 

変えたほうがラクできるなら変えていきたい派の私にとっては、変えることの大変さを学ばせていただく対話でした。

前から個人的に関心のあった「伝統はどこまで守るべき?」問題についてもヒントをいただけました。

 

ご参加くださったみなさん、高島公民館のみなさん、ありがとうございました。

 

次回は、今回もちらりと出た「責任をとるってどういうこと?」について考える予定です。

 

「生きる意味って?」@フリーデザイン岡山

本日11月26日(木)は、就労移行支援センターのフリーデザイン岡山で哲学カフェ。

テーマは「生きる意味って?」。

 

最近はコロナ対策で午前組と午後組にわかれて活動してるそうですが、会場からの参加者6.5名(1名は終盤からの参加)のほか、自宅からオンラインで3名の方が参加してくださいました。

 

 

 

 

 

どんな死を迎えたいかから逆算して今何をすべきか考えている人、

生きてると辛いこともあるけれどせっかくだから楽しみたいという人、

楽しいことはあるけど生きる意味は見つからないという人、

他者との関係から生きる意味を見つける人、

生きる意味はないという人、見つけたいという人、

生きる意味がないとわかるのがいやだから考えないようにしてる人、

いろいろでした。

 

個人的に興味深いなと思ったのは、

楽しみから生きる意味を見つける人もいれば、

楽しみと生きる意味は別物と捉えている人もいること。

 

それから、もうひとつ。

死から遡って今何をすべきかという方向から「生きる」に向き合う人と

いまをいかに楽しく心地よくするかトライ&エラーの積み重ねで向き合う人がいること。

 

その結果、

「みんなと話すことで、自分の考えが少しずつはっきりしてきた」という人もいれば、

「自分はこう考えてたけど、あっちの考え方も試してみよう」という人も。

 

 

また、以前、Ziba Platforで「生きる意味って必要?」について話したときにも出てきましたが、「死にたい」と生きる意味の関係についても、病気と健康という側面からちょっとつっこんで考えることができたのも、今回の対話の特徴だったかな。

 「ネガティブなことも話していい」という哲学カフェのよさを、久しぶりに感じることができた対話でもありました。

病気から生還して「なにか生きている意味があるのでは」と感じた経験を話してくださった方もいる一方で、反対に病気の辛さから生きてる意味が感じられずに「死にたい」と感じることもある‥‥‥。

これは、みなさんのお話をうかがっての個人的な感想になりますが、生きるって辛くて大変なこともあるから生きる意味がほしくなるという側面と、生きる意味が見つからないから辛いという側面と、両方ありそうです。

 

 

 

他に「〜としての生きる意味」など語りきれなかったポイントもありますが、今回のテーマを提案してくださった方が今日はいなかったので、また同じテーマを取り上げるかもしれません。

 

フリーデザイン岡山のみなさん、ありがとうございました。

 

 

Ziba Platformの「生きる意味って必要?」が気になる方は、こちらをどうぞ。

matsukawaeri.hatenablog.com