昨日7月18日(土)は、津山のZiba Platformさん主催のオンライン哲学カフェ第2弾でした。
テーマは「インターネットとコミュニケーション」。
問いじゃなくキーワード型のテーマって、わたしのなかではめずらしいかも。
案内文はこんな感じ。
メールにSNS、オンラインミーティング。
インターネットを使ったコミュニケーション方法も増えましたね。
これらによってコミュニケーションのあり方は変わりましたか?
それは根本的な変化でしょうか? それとも表面的な変化?
飲み物片手にオンライン上での対話を通して、インターネットとコミュニケーションの関係を探ってみましょう。
(Ziba Platformオンライン哲学カフェvol.2 の案内文より)
「そもそもインターネットってなんだっけ?」というギモンから始まり、
ウィルス禍でも集ったり幅広く声をかけられるというメリット、どこにも行かずしてコミュニケーションがとれることへの違和感などのインターネットを介したコミュニケーションとリアルなコミュニケーションのちがいを通して、
インターネットはコミュニケーションをどう変えたか?という問いに対する答えが浮かび上がる‥‥‥
そんな展開だったように思います。
しかし、それは、あくまで「あとからふりかえってみれば」の話。
メールについて「文字だけだと相手の表情やニュアンスがわからないから難しい」という話が出たけれど、それって手紙にも当てはまる?
オンラインだと「フリ」がしやすいというフェイクの話がでたけれど、直接会って話すと伝わりやすいというのは「勘違い」かも?
などなど、対話の渦中は、「あれ?インターネット特有の話かとおもってきいてたけど、それって、もしかしたらリアルなコミュニケーションにも当てはまっちゃう?」というようなことが度々起こり、混乱することしばしば。
しかし、そういうひとつひとつの混乱が、吟味を促進してくれ、後半の発見につながった気がします。
なかでも、大きなターニングポイントになったのではと思うのは、混乱をきわめた文字と声の違いに関する対話から、「手紙だって文字だけど、タイピングされた文字とはちがう。人によって字の特徴や個性が表れるし、TPOに合わせて往復のように便箋や封筒を使い分けたりもする」という指摘が飛び出したあたりでしょうか。
この指摘のあと、インターネットとリアルなコミュニケーションのちがいを、他のちがい(文字と声/フェイクと本物/非同期性と同期性)との区別がぐっとつきやすくなりました。
そのなかでも、わたしにとって大きな発見となったことが2つ。
自分の姿がみえる
zoomには自分の姿が自分からは見えないようにする機能もありますが、それでも、zoomのようなオンラインミーティングで初めて自分が他の人と話してるときの姿を目の当たりにして驚きや違和感を感じた方も多いのでは?
考えてみれば、文字をつかったコミュニケーションも、手紙は相手に送ると自分の手元には残りませんが、メールやLINEも、自分の発した言葉が自分の手元に残りますね。
なかには、人前で話す前には鏡の前で練習したものを録音するから、人前で話す自分の姿に慣れているという方もいましたが、相手に届くのと同時に自分にも自分の姿が届くというのは、インターネットを介したコミュニケーションの特徴かもしれません。
つながることとその場に一緒にいることのちがい
インターネットでつながることはできるけど、空間を共有してはいないから、画面の枠外では何をしていても相手にはわからない。下半身はパジャマかもしれないし、手元で粘土遊びをしてるかもしれない。視線が交わらずアイコンタクトも成立しない。
今回の対話の冒頭から「行くがないことの違和感」は指摘されていたのですが、その内実がみなさんの対話全体を通して徐々に具体性をもって明らかにされ、終盤に「インターネットでつながることはできるけど」という言葉が出たとき、そうか!「つながる」ことと、丸ごと自分の身を置いて「一緒にいる」ことってちがうんだ!と、眼から鱗でした。
(本当は、これらのヒントとなった、オンライン授業とオフライン授業のちがい、赤ちゃんのコミュニケーション習得など具体的例も印象深かったけど、わたしの力量ではうまく書けないので割愛。)
以上は、あくまでわたしからみた対話の姿。
参加者のみなさんも、それぞれに印象に残ったポイントがあるのではとおもいます。
いつも参加してくださっている津山の方、岡山市の哲学カフェに参加することが多い方、それから遠方の方など、参加者のみなさん+Zibaのスタッフさんのみなさん、ありがとうございました。
次回9月の哲学カフェは、Ziba Platformに集まって開催する予定で準備中。
今回の対話から明らかになった、丸ごとの自分で居合わせる対話、楽しみにしています。