12月10日(火)の朝は、高島公民館の哲学カフェ、ふたばカフェ。
9月に体調不良で休んでしまった回の振り替えで(その節は申し訳ありませんでした)、テーマは、「人と比べるのは悪いこと?」でした。
テーマを提案してくださった方に確認したところ、「自尊心とプライド」の回から出てきた問いらしい。
提案者自ら「今思えば、なんにでも良い面と悪い面があるのは当然なんだけど」とツッコミを入れつつスタート。
「比べることによって個性が明らかになるのでは」「比べられることで負けん気が発揮されてがんばれる」という人がいる一方で、比べられて傷ついたという人も。
比べることの功罪をあれこれ探るなか、
前半には「比べたあとにどういう色をつけるかという問題はあるけれど、比べること自体は良くも悪くもない」ニュートラル説が出てきました。
が、さらに対話が進んで後半、「比べるという行為自体に価値判断がが含まれてる」説が出てきたのは、結局、何がポイントだったのかなぁ?
いま思い返すと、そこんとこ、もうちょっと双方付き合わせて掘り起こしたかった気もする。
しかし、実際の対話は、それとは別方向に味わい深いものがあったのも事実。
「障がい者だからと比べてすらもらえないことの方が傷ついた」
「生まれた時は生きてるだけでうれしいのに、次第に欲が出てきて比べてしまうのはなんでだろう?」
「プラスαを求めてるのは、基本的な存在の次元で認めたうえでのことなのに、その基本のところが伝わってなくてびっくりしちゃう」
などなど。
なかでもハイライトを挙げるとしたら、
「うちの子が一番になるように組んで!という親がいるから、徒競走で順位づけをなくさざるを得ない」という指摘が、超断然リアルに語られたシーンでしょうか。
「でも、塾で比べられるのは、受け入れられてるよね」という指摘もあり、
たしかに塾や仕事で比べられるのは目的が明確でわかりやすいけど、学校で比べたり比べられたりする意味がよくわかんないかも、というか学校って存在そのもによくわかんないわ!と思っちゃいました。
そして、家庭も同じぐらい、そこで比べたり比べられたりすることの意義がわからない場のような気がする。
わたしは昔から哲学癖があって、大学でも哲学の成績だけは良かったから、いまてつがくやさんをしてるけど、哲学したこともない親だったらそんな個性あっても見えないし、たまたま美術好きの親の元だったからそれで評価されることが多くて、なかなかに苦々しい思いをしました。
今回は、能力を比べられる話や比べられて明らかになる個性の話がたくさん出たけど、比べる人にちゃんと比べる能力があるかどうかも、大事なんじゃないかなぁ。
そして、その能力の有無にかかわらず、それでも今回の対話で度々みなさんが言ってたように「比べてしまう」としたら、それはなぜだろう?
今度は「なぜ比べてしまうのか?」をテーマに、みなさんと語り合ってみたくなりました。