昨日10月15日(月)は、岡山市立高島公民館の哲学カフェ、ふたばカフェでした。
テーマは「『死ってこわい?さみしい?」。
こちらで「死」を取り上げるのは初めてで、いつもと毛色がちがうので、みなさんが来てくださるかドキドキ。
でも、初めての方や久しぶりの方がたくさん来てくださいました!
やっぱり、新しいチャレンジはしてみるものですね。
いつもの会話で出てくる話題で哲学するのも好きだけど、普段のおしゃべりでは話しにくい話題だからこそ哲学カフェで、というニーズもあるな。
と、こっそり初心を思い出しながらスタート。
戦争、テロ、身近な人の死、老い、病などなど、
死に関わる、あるいは死を感じさせる出来事や経験に事柄に触れながら‥‥‥
- 死に意味はある?
- 死がこわいのはなぜ?
- こわいのは、自分の死? 大切な人の死? 死一般?
- 自分が死んだ時、悲しむ人がいるほうがいい? いないほうがいい?
- こわいのは、死に至るまでの過程? 死の瞬間? それとも死んだあと?
- 死を近く感じるのはどんなとき?
- 死ぬと、どうなる?
- 生まれ変わりはある? 生まれ変わりたい?
- こうなると思ってるからこわいのか? わからないからこわいのか?
- 「困る」も「こわい」に入る? 入らない?
- 精神的な死は、死か?
- いつか死ぬと意識することによって、生き方は変わる? 変わらない?
- 大切な人に会えなくなるのと、大切な人が死ぬこと、なにがちがう?
ざくっと出てきた切り口やポイントを並べると、こんな感じでしょうか。
抜け落ちているものもあるかもしれません。
ひとつひとつはシンプルだけど、複数の問いを行き来しながら考えることで、みなさんが抱いている様々な「死」のイメージが浮かび上がってきました。
そして、最後には「生」のイメージも‥‥‥。
それぞれの言葉が、それぞれの仕方で、じんわり心に残る感じの対話。
なので、争点となったポイントを挙げるのは難しいのですが、ひとつ、その独特の例えで強いインパクトを与えてくれたのが、「私の命は株式会社」説でした。
自分ひとりで生きているなら、自分の意志で生を終わらせることもできるけど、そうじゃない。
自分が死んだら、困る人がいる。
その人たちは自分の命の株主のようなもの。
自分の生に関わり、力を貸したりアテにしたりしてくれる存在。
死は怖くないけれど、その人たちに迷惑をかけるのはイヤ。
だから勝手に倒産=死を迎えるわけにはいかない。
‥‥‥という考え。
同じように感じている人はたくさんいそうだけど、「株式会社」に例える人は少なそう。
最初聞いたときはびっくりしたけど、聞くほどに「なるほど〜」と納得。
「自分では気づかない、意外な株主もいそうですね」など、生死について語るのを少し軽やかにしてくれる例えでした。
ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。
次回のふたばカフェは、11月22日。
テーマは、「言葉で伝わること、伝わらないこと」です。
詳細はこちら↓をご覧ください。