昨日、てつがく癖のある人について書いたけど、
てつがく癖のない人の反応もまたうれしい。
「こんなにあれこれ考えたのは初めて!」
「脳みその、使ったことのないところを使ってる感じ」
「結論を出さなくていいコミュニケーションなんて、新鮮すぎる」
〈てつがく癖のある人〉に出会ったときは「仲間がいた!」という安心感があるけれど、
〈てつがく癖のない人〉に〈てつがく〉の楽しさが伝わったときは「仲間が増えた!」といううれしさがある。
そして、〈てつがくすること〉の副効用や社会的意義を教えてくれるのは、〈てつがく癖のない人〉のほうだったりする。
わたしも含め、〈てつがく癖のある人〉は、ただ堂々と思い切り〈てつがく〉できるだけで満足してしまう。
でも、〈てつがく癖のない人〉はそこに、意味や意義を見出そうとする。
「こないだの哲学カフェで聞いた話が、子育てのヒントになった!」
「職場に導入したら、部下の考えを知ることができたり、話しやすい関係づくりができるんじゃないか」
「学校で実践して、生徒の自分で考える力を育みたい」
「福祉施設で、利用者と地域をつなぐ場として活用できそう」
〈てつがく癖のある人〉にとって、そうした意味や意義は二次的なものにすぎない。
けど、それが〈てつがく癖のある人〉を救ってくれもする。
〈てつがく〉することの意味や意義を見出した人は、〈てつがく癖のある人〉に「そんなこと考えてなにになるの」「そんなこと考えなくても」と言って否定しないどころか、〈てつがく癖のある人〉の存在を歓迎してくれる。
だから、一緒にいて居心地がいいし、安心して呼吸ができる。
彼らが見出した意味や意義について、〈てつがく〉のどういう性質と関わるのか、それは〈てつがく〉に本質的なものか派生的なものか、〈てつがく〉してみるのも、また楽しい。