まつかわえりのてつがく日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川絵里のブログです。

てつがく癖のある人

昨日、また、〈てつがく癖のある人〉に出会った。

 

〈てつがく癖のある人〉は、「そんなに深く考えなくても」「それ考えて、なになるの?」と言われがち。

そして、そんなこと言われても困ってしまうのが〈てつがく癖のある人〉だ。

だって、考えようとして考えているわけじゃないんだもん。

音楽好きな人が、つい鼻歌を歌ったり、からだでリズムをとってしまうのと同じ。

絵を描くのが好きな人が、教科書の端やチラシのうらについ落書きをしてしまうのと同じ。

なのに、「そんなに考えなくても」「それ考えて、なにになるの?」とあまりに言われるものだから、しだいに〈てつがく癖のある人〉はその癖を隠すようになる。

 

わたしもその一人だけど、どうも世の中には〈てつがく癖のある人〉が他にもたくさんいるらしい。

‥‥‥と気づいたのは、哲学カフェをはじめてから。

 

〈てつがく癖〉を隠して生きるのは、息苦しい。

だから、〈てつがく癖のある人〉は、哲学カフェに来ると、水を得た魚のように生き生きしだす。

上手いとか下手とかは関係ない。

ただ、これまで隠していた自分を隠さなくてよいという状態は、「そのままのあなたで、生きていていいよ」と言われたような安心感を与えてくれる。

たぶん、それは、実存的ななにかに関わることなのだ。(このことを考えはじめて、初めて「実存」という言葉の意味が理解できた気がする。)

 

わたしが自分の住むまちに哲学カフェがほしいとおもったのも、同じ。

「他の地域ではなく、岡山でやる意味ってあるの?」なんて言われたけれど、

そんなの、ただわたしが住んでいるまちだからという意味しかない。

ただ、わたしは、自分の住むまちに、そのまんまのわたしでラクに呼吸できる場がほしかったのだ。

 

活動すればするほど、私には、誰かを支援しようとか、誰かを教育しようとか、誰かと交流しようとかいう意思が欠けているなと思う。

ただ、わたしがわたしのままでできる仕事が〈てつがくやさん〉だった。

そして、支援しようとか教育しようとか交流しようとか思わなくても、わたしが〈てつがく癖〉を隠さず生きることによって、結果的に誰かが生きやすくなり、それが「支援」だとか「教育」だとか「交流」として成り立つことは、あるらしい。(と、依頼者や参加者から教えてもらいました。)

 

哲学カフェで〈てつがく癖のある人〉に出会って、その人が生き生きした顔で帰るのをみるたびに、よかったなと思う。

こっそり〈てつがく〉してた子どもの頃のわたしにも、「大丈夫、そのうち、たくさんの仲間に出会えるよ」と教えてあげたい。