まつかわえりのてつがく日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川絵里のブログです。

『こどものてつがく〜ケアと幸せのための対話』

最近、哲学カフェのふりかりを全然できていないけれど、その間、こんな本を読んでいました。

「シリーズ臨床哲学」の最新刊。

執筆者は、私が学生時代からずっと哲学対話を学ばせていただいているおふたりで、私はもう何年もこの本が出るのを心待ちにしていました。

 

こどものてつがく- ケアと幸せのための対話 (シリーズ臨床哲学3)

こどものてつがく- ケアと幸せのための対話 (シリーズ臨床哲学3)

 

 

副題を知ってちょっと驚きましたが、読めば納得。

哲学書を読んで感動したことは何度もありますが、涙を流したのは初めてかもしれません。

待った甲斐がありました。

 

全体を通しての感想は、これまでの教育は、こどもたちの将来ばかり見つめて、こどもたちの「いま」を大事にしてこなかったんじゃないか、ということです。

私もずっと「教育」というものに違和感を抱いていたはずなのに、なぜこのことに気づけなかったんだろう。

 

学校で大人はこどもたちに「将来の夢は何か」をききたがるのに、こどもたちの現在の関心を知りたがらないし、こどもたちに「未来の社会を担う人材」として期待や重圧をかけはしても、現に社会のなかで生きる一市民としては扱わない。わたしの参加したハワイの小学生低学年クラスでは、「もしこどもが世界を治めたらどうなる?」という問いをこどもたちが選び、そうなったらどんなことになるのかを面白おかしく語り合っていた。いたるところにお菓子屋さんをつくる、というお茶目な意見もあれば、オバマ大統領(当時)から権限を委譲してもらう、という真面目な想定を考えるこどももいた。そうやって楽しく話しあいながら、こどもたちはその現在から世界とは何を指すのか、治めるとはどういう意味かにつちえ吟味を重ねていった。(『こどものてつがく ケアと幸せのための対話』pp.291-292)

 

 

もうひとつ興味深かったのは、「フィロソフィ(philosophy)」の捉え方。

philosophyの意味は、その語源から「知(知恵)への愛」と紹介されることが多い。

それに対して、ほんまさんは「フィロソフィ」という言葉に愛や関係という意味が含まれていることに注目して、こう言う。

フィロソフィ(フィロソフィア)という後は、「知」(ソフィア)そのものではなく、知へのわたしたちの関係を意味している。(『こどものてつがく ケアと幸せのための対話』(p.314)

「哲学ではじぶんで考えることがだいじだ」というひとがいる。でもほんとうにそうだろうか? むしろフィロソフィにとってもっとも大切なことは、考えることではなくて、気づくこと、注意すること、ケアすることではないだろうか。注意して見聴きする経験を重ねていけば、じぶんが考えたことのないようないろんなつながりが感じられたり、発見されたりする。それはケアの態度と通底するものだ。(『こどものてつがく ケアと幸せのための対話』p.316。下線部は原文では傍点。)

 

それから、高橋さんが「哲学とは、知性の能動性から始まるのではなく、生の受動性から始まる営みである」と述べている最終章。

実際、こどもたち、特に小さなこどもたちは、好奇心に満ちており、「どうして?」という問いを立てるのが好きだ。おそらく、それは、知識を求めているとか、大人を困らそうとしてわざと聞いている、ということだけではない。そうした問いかけをする時、こどもたちは、世界や他人に結びつけられ、なぜか存在してしまっているということ、世界から問われているという感覚を、純粋に楽しんでいるのではないかと思う。(『こどものてつがく ケアと幸せのための対話』pp.329-330)

 

第3部では、実際に日本でおふたりが、公立の小学校、美術館、少年院、震災についての対話など、こどもたちが置かれた状況で、こどもたちの現在にともに向き合う様子が具体的に描かれています。

 

そして、そしておふたりが考えるには、ここで言われる「こども」とは、何歳から何歳までというふうに年齢で区切れる存在ではなく、大人のなかにもいる潜在的なこどものことでもあるのです。

「こどものてつがく」に限らず対話に関心のある人、こどもに接する機会のある人、教育や支援に携わる人、全てに読んでほしい一冊です。