てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

「こじらせては、ダメですか?」@ヒバリ照ラス

3月14日(水)は、表町商店街にある複合ビル、ヒバリ照ラスで哲学カフェをしてきました。

 

ヒバリで考える【1】〜こじらせては、ダメですか?〜 | ヒバリ照ラス

 

実は以前3階のレンタルスペースをお借りしたこともあるのですが、今回の会場は1階のお店。

平日夜、ファッション誌の座談会のような感じで、ちょっとポップなテーマでやってみたい!

ということで、第1回のテーマは、「こじらせては、ダメですか?」。

最近「こじらせ女子」とか「こじらせ男子」とか聞くけど、「こじらせてる」と言われたりするけど、こじらせちゃダメなんですかね? そもそも「こじらせ」ってなんだ!?というわけです。

はじめましての方、ちょっと久しぶりの方、お馴染みの方、14名が参加してくださいました。


「こじらせるって、風邪とか病気についていう言葉じゃないの?」

「自分がこじらせてるんじゃないかと思ってるけど、よくわからない」

「知人が目的に合わないやり方をしてるのをみると、こじらせてるな〜と思う」

‥‥‥と、こんな感じではじまった対話。

 

ざっくり、3つのポイントを行ったり来たりしながら思考が深まる展開でした。

 

1)こじらせるってどういうこと?

  • 目的と手段の齟齬やねじれ?
  • 大多数の人のこと?
  • その人自身の内面のせめぎ合い?(「悩む」や
  • 「こじれる」と「こじらせる」の使い分けは?
  • 弱点やコンプレックスとの関連は?

 

2)「こじらせ」は外からみえる?それとも内面のもの?

  • 「こじらせ」は他者からの評価?
  • 自分について「こじらせてる」と言うことはできる?
  • 自分で認識できてるってことは、「真のこじらせ」ではない?

 

3)「こじらせ」という言葉

  • 「こじらせ」という言葉ができる前から同じような現象はあったのか?
  • ラベルを貼ることの意味は?

 

「こじらせるとは何か」を考えるうちに、「いじめも、こじらせの一種じゃない?」など「こじらせる」の範囲が広がっていったこと、それから様々な身近で実感のこもったお話(具体的に書くと個人が特定される可能性もあるので控えます)もおもしろかった! 

 

個人的な収穫は、「あ、私、昔こじらせてたな」と気づいた瞬間でしょうか。

きっかけは、私の隣に座っていた方の「こじらせてるって、もともと30代になっても処女の人とか、そういう人のことを指して使う言葉じゃなかった?」という発言。

といっても、30代だとか処女だとかいうことが「こじらせてる」のポイントかというと、必ずしもそうだとは思わないのですが。

ただ、ごちゃごちゃ考えたり知識を増やすばかりで行動しない人のことを「こじらせてる」というのならわかるな、と。

そして、そういう意味では、私も20歳前後までこじらせてたなぁ、と。

好きな人がいっても思いを伝えずやたら長い片思いをしていたり、「哲学は何の役に立つのか」と考えてばかりで実際に暮らしや社会のなかで使ってみようとしなかったり。

 

対話の最初の方で「目的と手段が噛み合っていない人をみると『こじらせてる』と感じる」という意見が出て、そのときは「じゃあ、行動しなければこじらせることもないの?」と問いかけましたが、上記のように考えると、考えてばかりで行動しないのも、目的と手段が合ってないという意味での「こじらせてる」に入ることがわかります。

「てつがく屋さん」として考えることを推奨する日々ですが、やってみないとわからないことは多いもの。

じーっと立ち止まって考えるより、動きながら考える、動く合間に考えることを推奨していきたい!と改めて思ったりしました。

 

‥‥‥というわけで、「こじらせては、ダメですか?」に対する私の暫定的な答えは「こじらせないほうがいいんじゃない?」ですが、みなさんはいかがでしょう?

もちろん、「こじらせてもOK!」という答えもありです。

ひとりひとりの価値観や、「こじらせてる」をどういう意味で捉えるかによっても答えはちがってきます。

ぜひ「こじらせてるってどういうこと?」と合わせて考えてみてください。

 

参加者のみなさん、ヒバリ照ラスのみなさん、ありがとうございました。

 

 

ヒバリ照ラスの哲学カフェは、今後、第2水曜日の夜、定期的に開催していく予定です。

次回のテーマが決まったら、またお知らせします。