1月20日(土)の午前中はスロウな本屋さんにて、久しぶりの、えほん哲学カフェでした。
テーマの代わりに、絵本を読んで、感じたことや考えたことを語り合います。
長くなっちゃったので目次を設置しておきます。
『椅子ーしあわせの分量』
今回の絵本はこちら。
オーケストラの椅子、王女の椅子、画家の椅子、バーの椅子、学校の椅子、占い師の椅子、ボクサーの椅子etc...
様々な椅子から垣間見える「しあわせ」と「かなしさ」が、詩的な言葉で綴られています。
これまでに読んできた絵本とちがって、明確なストーリーがあるわけではありません。
さて、どうなるだろう?と、ドキドキ実験するような気持ちで企画しました。
「座る椅子が用意されている」ってどういうこと?
まず序盤は、冒頭のこの仮説に関心が集中します。
(そういえば、この仮説について意見が聞きたくて、企画したのでした。)
ぼくたちには
座る椅子が用意されている。
しあわせの分量も
かなしみの分量も
きまっているんだ。
(ささめやゆき『椅子 しあわせの分量』p.1)
「自分の人生は自分で選ぶものでは?と抵抗がある」
「昨日読んだときは違和感があったのに、次第に『そうかもしれない』という気がしてきた」
「座る椅子が決まってるのに憧れもある。伝統工芸の後継ぎとか」
それぞれ、なぜそう感じるのか、質問や体験談も交えながら掘り起こしていきます。
「椅子が用意されている」とはどういうことか?
「運命は予め決まっている」という決定論と同じなのか?
それとも、「あなたの居場所がありますよ」という優しいメッセージ?
そもそも、「椅子」は何を表してる? 役割? 居場所? 「席」とはちがうの?
「しあわせの分量も かなしみの分量も きまっている」というのは本当?
もしそうだとしたら、どんなにがんばっても意味はないの?
それとも、どんな選択もしなくても、人生後悔せずにすむってこと?
男性か女性かでちがう?
そして中盤、この仮説について「男性らしい意見では?」という発言をきっかけに、「男性か女性かで感じ方はちがう?」という話題に。
実は私、最初「男性か女性かはあまり関係ないのでは?」なんて感じていました。
しかし、結果的に、これが私に冒頭の仮説を理解する大きなヒントをくれました。
参加者のうちの何人かは、表紙を見て「ゆき」という名前から、作者は女性だと思ったとのこと。
ところが、先ほど引用した1ページ目に「ぼくたち」とあるので、作者は男性なんだと気づいた。
結局、その方がなぜ「男性らしい意見」と感じたか、十分に理解することはできなかったのですが(女性は結婚や出産などを機に人生の選択を迫られることが関連しているというとこまではわかったのですが)、偶然、そのやりとりから思い出したことが、私に仮説を理解するヒントをくれました。
私は、この作者のように「ぼく」という一人称をさりげなく使える人がうらやましい。
(うらやましい理由はややこしいので割愛しますが)「女性」という椅子に座っている私が「ぼく」という一人称を使ったとしても、こんなふうに自然に受けとめてはもらえないだろう。
そんなふうに、座る椅子によって、できること/できないことがある。
だとしたら、冒頭の仮説を、こんなふうに読むこともできるのではないかと思いました。
私たちは、自分が座る椅子を全く選べないというわけではないけれど、どんな椅子でも選べるわけではない。
どの椅子にも同じくらいの分量の「しあわせ」や「かなしみ」があるけれど、座る椅子によって、どんな「しあわせ」や「かなしみ」を味わえるかは異なる。
だからこそ、たとえば夫の転勤が決まったとき、仕事をやめて専業主婦になるか、遠距離婚をしながら仕事を続けるかといった選択に、私たちは悩むのではないか。
ある人が座っていた椅子に、別の誰かが座るということ
そして終盤。
「椅子とは何か?」「椅子が用意されているとはどういうことか?」から、「ある人が座っていた椅子に他の誰かが座るとはどういうことか?」に問いが発展します。
祖母の座った藤の椅子、
母の座った藤の椅子、
おばあさんになった私が座る。
祖母のくらしたこの家に、
母のくらしたこの家に、
おばあさんになった私がくらす。
椅子もテーブルも壺までもそのままで、
ただ人だけがかわってゆく。
(ささめやゆき『椅子 しあわせの分量』p.28)
映画のしまいはFINの文字。
Tout passe Tout lasse Tout casse
すべてはすぎゆき
すべては倦み
すべてはこわれる。
そしてひとつあいた椅子に
次の誰かがまた座る。
(ささめやゆき『椅子 しあわせの分量』p.31)
親から受け継いだ藤の椅子と、映画館の椅子。
どちらも、ある人が座っていた椅子に、別の誰かが座ることを描いている。
でも、これって、同じなの? ちがうとしたら、何がちがう?
自分が座っていた椅子に、他の誰かが座ることを、うれしく感じる人もいれば、さみしく感じる人も。
そこから、「いま自分が座っている椅子は、どうだろう?」「自分が誰かから受け継いでいるものってあるかな?」と、それぞれが自分自身に向き合いなおしたところで、この日の対話を終えました。(お雑煮の話題で盛り上がりました。)
他にも、「これが椅子ではなく座布団だったら?」「将棋士の座布団はどんなだろう?」なんて発言も。
様々な人生に思い巡らし、想像力を掻き立てられる一冊でした。
ご参加くださったみなさん、スロウな本屋の小倉さん、素敵な時間をありがとうございました。