1月7日(日)は、倉敷のあきさ亭にて、哲学カフェでした。
大学の研究室の後輩にあたる佐々木さんに、「初めて進行するときは、一緒にお願いしたい」と声をかけていただき、喜んで企画しました(私も初めて哲学カフェの進行するときは、先輩に練習を手伝ってもらったり、一緒についてきてもらったりしたなぁ)。
念のため、私もフォローできるよう「サブ進行役」として控えていましたが、始まってみればフォローの必要は一切感じず。
最初に企画者(あるいはコーディネーター?)としてご挨拶させていただいただけで、あとは完全に参加者として楽しませていただきました。
テーマの「ゆとりって必要?」は、以前、佐々木さんが「ゆとり世代のためのコミュニケーション講座」に参加してくださったときに、提案されたもの。
「いつか『ゆとり世代』という括りのない所でやってみたいね」と話してたんですが、こんなに早く実現するとは!
実際に、みなさんと話してみて、思った通り、予想以上に楽しいテーマでした(日本語おかしいけど)。
個人的に、印象に残ったポイント。
- 「ゆとりが必要」の必要性と、「働く必要」の必要性は同じ?
- 「ゆとり」と「余裕」、「遊び」は同じ?ちがう?
- 本人は「ゆとりがない」と思ってるのに、他人からみたら「ゆとりがある」ように見えるのはなぜ?
- ゆとりは予め準備して得られるもの?それとも偶然得られるもの?
- ゆとりって、個人単位ではあったほうがよいと思う人が多いのに、組織や集団になると「無駄」と捉えられるのはなぜ?
- ゆとりは通貨のようなもの。ゆとりという通貨を払って働いているが、個人によってその所有量はちがう?
- ゆとりのある関係性とは?家族について、近い存在だからゆとりをもって関われる場合と、近いからこそゆとりがなくなってしまうことがあるのはなぜ?
みなさんの話を聞きながら、お店のなかのものについて、「これって、ゆとり?余裕?遊び?」なんて考えるのも楽しかったです。
佐々木さん、参加者のみなさん、あきさ亭のMちゃん、楽しい時間をありがとうございました。