てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

哲学カフェ「多数決で決めちゃいけないのは、どんな時?」

あけましておめでとうございます。

ずいぶん、ブログをお留守にしてしまいました。ごめんなさい。

年末進行と、いろいろ考えさせられる出来事が重なり、下書き状態の記事ばかりたまってしまっていました。

次から次へといろんな考えが浮かんできて、書こうとするんだけど、まとまらない。

そんな感じでした。哲学することをお休みしていたわけではないのですが‥‥‥。

このブログは、私が自分自身の備忘録のために始めたものなので、大目にみて、のんびりお付き合いいただければ。

 

さて、今や昨年になってしまいました、去る12月10日は、尾道のantenna Coffee Houseさんで2ヶ月に一度の哲学カフェでした。

マスターから「民主主義について考えたい」というご要望をいただいたのですが、「民主主義」ってなんだか知識量が発言力に影響を与えやすそうなテーマなので、本かゲスト付きじゃないと難しいなぁ。

ということで、二人であーでもないこーでもないと往復メールを重ねた結果、「多数決」について考えてみることに。

「民主主義」に必ずしも多数決は必要ないけど、現在の日本の民主主義のあり方を考えるヒントになればいいなと思って。

 

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2017.12.10 antenna Coffee House


 実際やってみてどうだったかというと、‥‥‥いつもの8倍ぐらい疲れました!

良い意味で。

帰ってからも、みなさんとの対話から、じわじわ気づかされることがたくさんあって、びっくりしました。

 

結果的には大満足の回。

しかし、対話中もお伝えしたように、開始から1時間20分は、けっこうもどかしい気持ちが続きました。

 

「クライアントに『社内で多数決して決めました』と言われると、『本当にそれがいいって思ってるの?』と思ってしまう」

「多数決は無責任だと思う」

「全員合意が理想かもしれないけれど、多数決なら限られた時間で決められる」

「最初から多数決で決めようとする場合と、満場一致で決めようとしたけど時間がないから結果的に多数決になってしまったという場合は、違う気がする」

「リーダーが決めて、みんながそれに従うっていう方法もあるけれど‥‥‥」

「どっちでもいいことは、多数決でもいいんじゃない?」

「でも、命や人権に関わることは、多数決で決めたらダメ」

「歴史から学ばないと」

 

気になる発言はいくつも出ているのに、まだその奥に核心に迫るなにかがありそうなのに、なかなか触れられない、言葉にできない、そういうもどかしさです。

そのときは、何が足りないのか、どうすればその核心に触れることができるのか、わかりませんでした。

 

「どっちでもいいことと、そうでないことはどう見分ける?」

「何が命や人権に関わることで、何が関わらないことなのか、誰がどうやって判断する?」

「歴史から学ぶべきことってなんでしょう?」

 

などなど声かけもしてみるものの、ヒットはせず、空振り。

 


あとからふりかえると、私にとってあの1時間20分は、織物でいうとひたすら縦糸を張っていくような時間だったな〜と思います。

横糸が見つかったのは、最後の40分。

少数派(マイノリティ)の話題からでした。

 

「多数決って、少数派の意見がなかったかのように消えちゃうのがイヤだ」

「いや、絶対与党にならないだろうという党に投票する意味がないわけじゃない」

というやりとりのあと、それまで黙って聞いていたある女性が、

「少数派といえば、同性婚ってどう思います?」

と投げかけました。

そして、この投げかけが様々な立場の違いを浮かび上がらせてくれました。

あとからふりかえると、それはこの「同性婚」という例が「当事者性」を孕んでいる問題だったからのような気がします。

 

私自身、「同性婚だけじゃなく、複数婚(3人以上の婚姻)もありじゃないかと思っている」という発言に自分の想定の狭さを思い知らされたり、「法律で認める必要性は?事実婚じゃダメなの?」という疑問に「そうか、何にどう困るか説明しないとわからない人もいるのか」と気づかされたり。

そして、異性愛者と同じように、同性愛者のなかにも事実婚を望む人もいれば法律婚を望む人がいること、事実婚だと扶養や相続の問題が発生したときに困ることがあることを説明しながら、「多数決の問題からマイノリティの問題に脱線しちゃってないかな?」と不安を覚えはじめたころ、ひとつ重大な問題に思い至りました。

 

 

「そうか多数決って、たいして意志をもっていなくても、投票できちゃうんだ!」

 

特にマイノリティの抱える問題は、単に議論における少数派というだけでなく、どんなときに誰がどんなふうに困るのか、知らない人が多い。

詳しく知らなくても、「どっちでもいい」と思っていても、「多数決」という土俵では、あたかもそれが自分の意志であるかのように票を投じることができてしまう。

その大多数の票が、少数の人生を大きく左右してしまう。

かといって、私たち全員が全ての社会問題について詳しく知り、自分の意志をもつことなんてできるだろうか?

 

そう気づいたとき、その気づきが横糸となって、前半張られた一本一本の縦糸の意味が一気に見えてくるような気がしました。

 

なぜ、「本当にそれがいいと思ってるの?」と思ってしまうのか。

なぜ、多数決は無責任に感じてしまうのか。

なぜ、多数決だと短時間で簡単に決定できちゃうのか。

なぜ、満場一致やリーダーによる決定のほうが信頼できるのか。

なぜ、最初から多数決で決めようとする場合と、満場一致を目指す場合とで、人々の態度がちがってくるのか。

なぜ、何を歴史から学ぶべきか。etc...

 

すべて、「たいして意志をもっていなくても、意志のあるように振る舞えてしまう」という多数決の特徴に起因するなぁ、と。

 

以前から関心をもってきた問題について、「多数決」という切り口から新たな発見もありましたし、他にも細々と見解の相違からくる発見がたくさんありました。

参加者のみなさんは、もしかしたら、私とはまた別の関心から別の論点が印象に残ったかもしれません。

噛めば噛むほど味わい深い、スルメ回だったと思います。

 

お付き合いくださった参加者のみなさん、テーマづくりに粘り強くつきあってくださったマスター、ありがとうございました。

 

【おまけ】

一応、開始前にこんな本も読んでみました。

多数決のやり方にも色々あることがわかって、おもしろい!

哲学カフェの参考にはならないけど、教養として一度は読んでおきたい(岩波新書にしてはわかりやすいから、一度読めば理解できる)一冊。

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)