てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

交差点を探すワーク@3校合同勉強会〜入試と哲学対話〜

あけましておめでとうございます。

 

2019年最後のお仕事は、長期休暇のたびに訪れる徳島県立池田高校から「今回は、愛媛県川之江高校香川県善通寺第一高校との合同勉強会で哲学対話を!」とご依頼いただき、四国へ行って参りました。

 

他に3名のカフェフィロメンバーにも来てもらったのですが、4グループに分かれてたとしてもそこそこ大人数になるし、これまでの経験から初めての哲学対話(しかも他校生含む)で大人数だと発言するのに躊躇してしまう生徒さんも多いだろうな‥‥‥

ということで、今回は、3人1組でできる対話(思考)の交差点を探るワークをしてみました。

(実は前から、こういう少人数のワークを取り入れてみたかったのだ。)

 

 こちらのセミナー時に開発したワークです。

matsukawaeri.hatenablog.com

 

 

今回初めて、私以外の人(カフェフィロメンバー)にもこのワークのサポートをしてもらったのですが、サポート役にもちょっとしたコツが必要かもしれないことが判明。

自分でつくったワークだからか、自分でやると無意識にワークの穴をフォローしてしまっていたらしいことに気づかせてもらいました。

ポイントは、「答えは自分のなかにある」ということをどう伝えるか、かなぁ。

年末年始にワークの方法をアップしようと思ってたけど、そこんとこ、もうちょっと言語化してからにしたほうがよさそうです。

 

生徒さんたちの取り組んでくれたワークシートには、どのグループもがんばって話し合い考えてくれた形跡が残されていたので、ワーク考案者のわたしも、もう一歩がんばらねば!

 

 

そして、この日のお土産に、池田高校の先生から、夏休みの哲学対話のあと「ふりかえり作文」の練習を一緒にした3年生たちがAO入試・推薦入試で全員合格!というご報告をいただきました。

 

matsukawaeri.hatenablog.com

 

池田高校の先生方は、哲学対話が受験対策に収まるようなものではないことは十分理解してくださっている(ご自身が哲学対話に参加するのをとーっても楽しみにしてくださってる先生も!)。

けれど、結果的に受験でも結果が出てる。

これって、哲学対話が入試対策に使えるという表面的な話ではなく、ちゃんと自分で考えたり協働できる人材を欲する大学や学部が増えてるってことなんだろうな。

大学自体も専門分野をつなぐ学際的な取り組みや、地域との協働が求められる時代だし。

実際、そうした特色をもつ学部で、グループディスカッションや面接といった入試が増えているような印象があります。

 

 

大阪大学コミュニケーションデザイン・センターで研究員をしていた際、いろんな領域の人と接することで「これからの哲学が担うべき役割は、『学問の基礎』じゃなく、“諸領域のあいだをつなぐ”ことにあるんじゃないか」と思い至ったものですが、ここにきて、その“諸領域のあいだをつなぐ”力が基礎力として求められてもいるのを感じます。

毎年池田高校の3年生と試みている自分たちで問いをつくることや、今回2年生と試みた思考の交差点(共通点と相違点)を探すことは、ちょうどそこにフィットするんだろうな。

 

哲学対話を入試対策という枠に合わせた結果ではなく、社会のニーズに応えようとする大学と、様々な現場のニーズに応えようとして大学を飛び出した〈てつがくやさん〉の実践がフィットした結果なのだろうと、うれしく受け止めています。

哲学カフェのひと

先日、夫の奥さんという立場で出た一切わたしの職業とは関係ない集いで、なにかの拍子に「え?哲学カフェのひと?」と気づかれて気づきました。

 

国際的には「哲学プラクティショナー」と呼ばれたり、勝手に「てつがくやさん」と名乗ったりしてるけど、なんだかんだで結局一番わかりやすいのは、「哲学カフェのひと」なんだな。

 

おかやまのてつがくかふぇのひと。

いいかもしんない。

 

 

 

ご近所さんで哲学対話〜フリーデザイン岡山と理大付属中高

今日は、フリーデザイン岡山へ。

テーマは当日募集の哲学カフェをしてきました。

 

提案されたなかから「成長するのはどんなとき?」に決定し、

「成長したいのはどんなとき?」

「成長は目的?手段?」

「成長ってなに?」

「成長したって誰が判断するの?」

‥‥‥と問いを接木のようにして考える時間。

 

さらに、そのあとすぐ、岡山理科大付属中学校・高等学校へ。

先生方にハワイ流哲学対話を体験していただきました。

テーマは、「コミュニケーションはなぜ難しい?」。

 

「コミュニケーション」の範囲が人によってちがって驚いたり、

意外な一面が垣間見えたり???

 

理大付属のほうは初めてでドキドキでしたが、思った以上にみなさんいい表情で対話されてて、ほっとしました。
生徒に哲学対話を!という学校は増えてきたけれど、教員同士の対話を!とお誘いくださる学校はまだまだめずらしく、そんな学校がうちのすぐ近所(門までなら徒歩12分)にある幸せを噛みしめました。

 

なんで、近所にそういう学校や施設があると、こんなにうれしいんだろう?

もちろん、遠方へお招きいただくのも大変光栄でうれしいことなのですが、ご近所さんでの哲学対話はそれとはまたちがううれしさがあるなぁ。

なんとなく、自分の暮らすまちに哲学フレンドリーな人がいると思うと、安心して暮らせるというか、息がしやすい。

 

「そんなに深く考えなくても」「それ考えてなんになるの?」

そんなふうに言われることが、考えようとして考えているわけじゃない、息をするように哲学したいわたしには息苦しく、子どもの頃は隠れてこっそり哲学してたので、哲学フレンドリーな人たちがご近所にいて、哲学癖を隠さず生きられるって、本当にありがたいことなのです。

 

もちろん、わたしが体育苦手なように、「わたし、哲学すんの苦手なんだよね〜」という人もいていいけれど、そういう会話が成り立つぐらいには、哲学という営みの存在が馴染んでくれるとうれしいなぁ。

 

たぶん、それが、わたしが“てつがくやさん”をするモチベーションの大部分を占めている気がする。