まつかわえりのてつがく日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川絵里のブログです。

「恋と愛の違いって?」@宝湯

今日の夜は、愛称「宝湯」の2階事務室をお借りしての哲学カフェ♪

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‥‥‥と思ったら、なんと、先月のふりかえりをアップしそびれてました。

投稿したつもりが、「下書き」状態(泣)。

 

先月2月13日(水)の宝湯の哲学カフェは、バレタイン前夜というとてもシンプルな理由でこのテーマ。

 

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恋は狭く、愛は広い?

恋は持続しないけど、愛は持続する?

恋は一方的で、愛は二人の間にある?でも、無償の愛は?

「愛」は真ん中に心があるけど、「恋」は下心?中国語の「 爱 」は?

loveと「愛」や「恋」はちがう?

「認めてほしい」と「愛してほしい」は同じ?

愛の「認める」と恋の「認める」は同じ?ちがう?

恋してることを知られるのが恥ずかしいのはなぜ?

自分に自信があるかどうかで恋の仕方は変わる?

恋から愛に変わることはあるけど、逆に愛から恋になることはある?

 

 ヒバリ照ラスからこちらに移ってきて2度目の開催ですが、テンポよく偏りすぎず発言が出てきました。

 

「恋」や「愛」について哲学対話をしたことは(つい先日の牛窓オリーブ園のも含めて)何度かあるのですが、特に今回独特だったのは、以下のポイントでしょうか。

  • 恋してることを知られると恥ずかしいのはなぜ?
  • 「愛する」「恋する」それぞれと「認める」の関係


どちらも、we love youってどういうこと?というところから出てきた切り口でした。

 


The Rolling Stones We Love You Promotional Video 1967

 

今回は、対話の内容だけじゃなく、

毎回同じ二人が同じタイミングで手を挙げたり、

話の展開に合わせて同じ人が絶妙な歌詞の曲を教えてくれたり、

ある人が直感から出てきた言葉の意味を他のみんなで考えたり、

そういうLIVE感溢れる感じが、とてもよかったな〜。

 

テンポよく、いろんな話を行ったり来たりで追いきれないんだけど、それが楽しくて、進行の仕方も話の内容をまとめることは一切なく、たまに合いの手を入れるみたいな進行になりました。

じっくりひとつひとつちゃんと立ち止まって考えるのも好きだけど、こういうLIVE感溢れる哲学カフェも大好きです。

 

ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。

本日もどうぞよろしく。

 

追伸:参加者のみなさま

完全にどーでもいい話だけど(だから哲学カフェ中は言わなかったけど)、「恋するフォーチュンクッキー」と言えば、この替え歌が好きです♪

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てつがく対話で男女共同参画@犬山男女共同参画市民会議「きらきら」×犬てつ

先月2月2日に行った愛知県犬山市での「てつがく対話で男女共同参画」のレポートが、企画者の犬てつさんがブログにあげてくださっています。

とても丁寧に記録をとってくださっているので、その場に居合わせたような気分を味わえるかも?

ぜひお時間あるときに覗いてみてください。

 

inutetsu.exblog.jp

 

わたしは大人グループの進行をさせていただいたのですが、あのあとも、ちょこちょこ生活のなかで対話の内容を思い出すことがあります。

とくに、誰に言われるでもなく、「わたしが家事をやらなきゃ」と勝手にプレッシャーを感じてしまうとき、この対話を思い出す。

すると、「いやいや、誰にもやれって言われてないやん」と、いい感じに肩の力が抜けます。

 

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2019.2.2 大人グループの板書@てつがく対話で男女共同参画

 

特定の思想を押し付けずに、小学1年生も一緒に男女共同参画について考えられるテーマってなんだろう?と考えた末のテーマ「ずるい」でしたが、子どもたちのおかげで大人も肩の力を抜いて考えられた気がします。

犬てつのみなさんとの事前打ち合わせも含め、学びの多い企画でした。

 

犬山市でも、その他の地域でもこういう試みがまたできるといいな。

 

ご参加くださったみなさん、犬山男女共同市民会議のみなさん、犬てつのみなさん、ありがとうございました。

えほん哲学カフェ『せかいいちのいちご』

こんにちは。ご無沙汰してしまいました。

確定申告や新しい試みやなんかが重なって、なかなか落ち着かない日々でした。

ようやく、まだまだ積み残している仕事もあるけれど、ちょっと一息。

 

昨日3月5日は、広島県福山市へ。

絵本好きのお母さんたちを主な対象とした、炭本研究所主催のえほん哲学カフェでした。

今回取り上げたのは、乙女心をくすぐられる表紙のこちら。

 

せかいいちの いちご

せかいいちの いちご

 

 

そういえば、岡山市のスロウな本屋さんでこの絵本をとりあげたえほん哲学カフェのレポートも書きそびれてました。

まとめてふりかえります。

 

ここから先は、ネタバレ注意です。

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シンポジウム「ヴァルネラビリティと対話」

昨日2月19日(火)は、神戸大学へ。

シンポジウム「ヴァルネラビリティと対話」に登壇者として参加してきました。

 

www.h.kobe-u.ac.jp

 

わたしは、「語られなかったことが語られるとき」と題して、家族/遺族のためのがんカフェと福祉施設での対話について発表(+相談)させていただきました。

 

ヴァルネラビリティvulnerability)」。

学生の頃は本に出てくるなにやら抽象的で深淵な思想概念という感じでしたが、様々な対話実践を経て、とても具体的なシーンがたくさん思い浮かぶようになりました。

「傷つきやすさ」、「被傷性」、「脆弱性」、「攻撃誘発性」‥‥‥いろんなふうに訳されますが、わたしが今回思い浮かべたのは、安易に触れられると傷ついてしまう、だからといって、ないフリをすれば不要に触れられてしまう危険もあるし、ないフリをし続けるのも大変な、なにか。

その人にとって大切で深刻だからこそ、共有できたらうれしいけれど、安易に触れるのは大きなリスクを伴ってしまう‥‥‥そんななにかが、語られるときの条件とは?

また、それが語られないほうがよいのはどんな場合か?

 

 

他の登壇者の方々(私にとっての先生方、先輩方)に比べたら、とても幼く拙い発表だったと思います。

もう少し話し慣れていることを焼き直すことも考えたのですが、せっかく先生方や先輩方にお会いできる貴重な機会だったので、他ではまだ話したことがない、哲学プラクティショナー(実践者)として今まさに迷っていることを「ヴァルネラビリティ」に寄せて、お話させていただきました。

自分の未熟さを晒してでも、なにかヒントがほしい。

そんな思いで拙い話をきいてもらって、みなさんのお話をきいて、本当によかった。

 

痛みを表現するとはどういうことか。

「対話」の広さと「哲学散歩」や「がん川柳の会」の意味。

話すほうだけでなく、聞くほうも痛みを伴うということ。

量ではない質的ななにか。

「語らせる」ことの危険性。

ピアとはなにか?という問い。

 

たくさんヒントをいただきました。

 

 

来場してくださった方からも、「今回のシンポジウムに参加して、なぜ対話がケアとつながるのか初めて腑に落ちた」という感想も、うれしかった!

懐かしい方にもお会いできました。

 

ご来場くださったみなさん、質問やアドバイスをくださったみなさん、そして企画してくださった神戸大学の稲原さん、本当にありがとうございました。

 

「人の目、気になる?気にならない?」@岡山市立高島公民館

本日2月15日(金)は、高島公民館の哲学カフェ、ふたばカフェでした。

テーマは「人の目、気になる?気にならない?」。

 

マナーと人の目、

それぞれの場で求められるものとそうでないもの、

他者の価値観と自分の価値観、

不特定多数の目と特定の誰かの目、

相手が見た自分と実際の自分、

「こう見られたい(見られたくない)」と「こう見られちゃう」、

人の目が気になった過去と気にならなくなった私と現在、

「気にしすぎ」と「気にしてほしい」、

「気になる」と「気にする」‥‥‥

 

いろんなものの間で揺れ動きながら、思考を巡らす時間でした。

 

序盤からけっこう深い対話でしたが、それでも、まだ話したりない、まだもう少し掘れそうと思わせてくれるテーマでした。

 

ご参加くださったみなさん、高島公民館のみなさん、ありがとうございました。

 

.次回のふたばカフェは、3月11日(月)。

テーマは、「人助けってどこまでできる?」です。

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「〈つながり〉と〈しがらみ〉」@Ziba

少し時を遡りまして‥‥‥

1月26日(土)は、岡山県津山市にあるZiba platformの哲学カフェでした。

テーマは「〈つながり〉と〈しがらみ〉」。

過去最多の15名以上の方が参加してくださいました!

 

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職場の付き合い、地域での関係性、親戚の集まり、「つながり選挙」と「しがらみ選挙」のちがい(!)、学生時代の女の子同士の付き合い、消防団の体育関係なノリなどを例に、

  • 〈つながり〉と〈しがらみ〉のちがいは?
  • 自分にとってプラスになる関係が〈つながり〉で、マイナスになる関係が〈しがらみ〉?
  • 一方にとっては〈しがらみ〉だけど、相手にとっては〈つながり〉ってこともありうる?
  • 男性と女性とで、〈つながり〉や〈しがらみ〉のあり方はちがう?
  • 〈つながり〉が〈しがらみ〉に変わるのはどんなとき?

などなど。

 

なかには、「〈つながり〉は感じるけど、〈しがらみ〉は感じたことがないな〜」という方も。

うらやましい!

だけどそれって、それとも、その人にはわたしが「しがらみ」と呼びたくなるような関係は一切ないのだろうか?

それとも、わたしが「しがらみ」と呼びたくなるような嫌な関係もその人が「つながり」と呼んでいるだけなのだろうか?

 

そんな疑問がむくむくわいてきた対話の中盤、「どうしたら〈つながり〉が〈しがらみ〉にならなくてすむのか?」についてみなさんが語り合うなか出てきた指摘が、印象に残りました。

 

〈つながり〉が〈しがらみ〉に変わるというより、そもそも人間関係って〈しがらみ〉から始まるのでは?

子が親を選べないのはもちろん、親だって子を選べないし、地域や学校、職場の人間関係だって、その人と選んで関係が始まるわけじゃない。

最初に〈しがらみ〉があって、そのうちのいくつかが、やがて〈つながり〉に変わるんじゃないかな。

(参加者の言葉より。ただし、メモをとっていたわけじゃないので、表現は多少ちがってるかもしれません。あしからず

 

 

この指摘を聞いた瞬間、「しがらみ」という言葉の印象が、ガラリと変わりました。

それまで重くのしかかるように響いていたけれど、良い意味で軽くなるのを感じました。

 

すべての関係性は〈しがらみ〉から始まる。

だったら、〈しがらみ〉があるのは当然だし、無理になくそうとしなくていいや。

そう思えたのが、わたしにとって一番の収穫だったかも。

 

もしかしたら地方によっても感じ方がちがうかもしれないけれど、この哲学カフェが開かれた津山市も、わたしが住んでいる岡山市も、家族もすべて知られていて下の名前で呼び合うというほどではないけれど、東京や大阪といった都会と比べるとまぁまぁ関係性が密なお土地柄。

消防団の話題なんか特にそうですが、自分が選んだ人間関係だけで暮らしていけるわけではない、選ぼうとしてもどこかでつながってしまう、そういう地域です。

ここで会った人とまた別の場所で会うかもしれない、そういう土地でこういうテーマについて率直に語り合うのはちょっぴりスリルを感じたりもするわけですが、だからこそ語り合えると地域で息がしやすくなるなぁ、と感じたりもしました。

 

その他にも、性別によって関係性の築き方はちがう?男性だけど男性同士の付き合いが苦手、女性だけど女性同士の付き合いが苦手な場合はどうしたらいい?といったポイントでも盛り上がりをみせました。

他の人のようにはできくても、関わっていける方法を探そうと思えるヒントが見つかりました。

 

ご参加くださったみなさん、Ziba platformのみなさん、ありがとうございました。

 

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2019.1.26「〈つながり〉と〈しがらみ〉」@Ziba platform

 

次回のZiba platformでの哲学カフェは、3月30日(土)の予定です。

テーマなど詳細決まりましたら、またHPなどでお知らせいたします。

 

eri-philo.com

 

テツドク! ミシェル・フーコー『真理とディスクール』

2月10日(日)は、antenna Coffee Houseにて哲学カフェ尾道

今回は、哲学書の言葉に触れ語り合うテツドク!を開催しました。

いわば、テーマ代わりに哲学書について語り合う哲学カフェです。

 

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今回扱ったのは、ミシェル・フーコーの『真理とディスクール』。

古代ギリシアの「パレーシア」という概念に注目し、真理を語るとはどういうことか、そして真理を語るという行為がどのように問題として認識されてきたかを歴史的に考察した講義の記録です。

 

真理とディスクール―パレーシア講義

真理とディスクール―パレーシア講義

 

 

この本でテツドク!をしたいと思ったのは、以前こちらで「見て見ぬフリするとき、しないとき」というテーマで哲学カフェをしたとき。

「本当のことを言うには、本当のことだからこそ勇気がいる」という発言を聞いて、これはまさにパレーシアの問題じゃないか!と、みなさんとこの本を読んでみたくなりました。

 

パレーシアステースの真摯さを「証明する」のは、その勇気です。(真理とディスクール―パレーシア講義、p.14)

 

だれかがパレーシアを行使していると言われるのは、そしてパレーシアステースとして認める価値があると判断されるのは、真理を語ることで、その人がリスクを引き受け、危険を冒す場合に限られます。(真理とディスクール―パレーシア講義、p.16)

 

こうした「パレーシア」という概念に「これはまさに自分が職場で体験していることだ!」とポジティブに反応してくださる方もいる一方で、「真理とはなにか」ではなく「真理を語るとはどういうことか」を歴史的に分析するというフーコー独特の語り口に戸惑いを示される方も。

それぞれの疑問や感想を交え、それぞれの視点の意義を確認し、なんとかお互いの関心の交わる問いが見つかったのが、16時5分前。開始から2時間弱経過したときでした。

いつもの哲学カフェが2時間のところ、本の紹介もあるからと3時間いただいておいてよかった!

 

その問いとは、

人がパレーシアをしようと思うとき、その人の内面で何が起こっているのか?

リスクがあることを認識しつつ、それでもあえて真実を述べようとするのはなぜなのか?

 

みなさんとその答えを共有するところまではいきませんでしたが、

  • 病いの告知をするかどうか
  • マナー違反を注意できるときとできないとき
  • 職場で他の人とは異なる意見を言うこと
  • 嫁の立場からは言いにくいこと
  • 地域住民の話し合い
  • あとでこっそり「私もそう思います」と言われ、「みんなの前で言ってほしかった!」と思ったこと
  • 自分の言葉が、相手の人生に影響を与えすぎてしまうことへの恐れ

などなど、参加者のみなさんがパレーシアしたりしなかったりした経験とその理由をうかがいながら、わたしたちの暮らしのなかにもパレーシアをするかしないかの選択を迫られることがたくさんあることに気付かされました。

 

そして、パレーシアには必ずリスクが伴う、リスクが伴わなければ真理を述べる行為であっても「パレーシア」とは呼ばれないわけですが、リスクの大きさは状況によって変わりうる。

とすると、パレーシアをしやすい社会とそうでない社会があるのではないか。

パレーシアをしやすい社会をつくるには、何が必要なのだろう?

パレーシアしやすい社会のために、何ができるだろう?

 

そんな問いを共有したところで、この日は終了となりました。

 

みなさんの話された内容はもちろん、この日みなさんが話される様子からも、改めて、言葉がもつ力というものを強く感じる時間でした。

 

ご参加くださったみなさん、antenna Coffee Houseさん、ありがとうございました。

 

次回の哲学カフェ尾道は、4月14日(日)。

テーマは「他人の不幸は蜜の味?」です。

詳細については、後日HPやfacebookでお知らせします。