7月31日開催予定のご遺族対象のがんカフェも、引き続き参加者募集中です。
また、8月はお休みさせていただきますが、その次は土曜日か日曜日に開催できないかと模索中です。
詳細決まりましたら、またお知らせいたします。
7月31日開催予定のご遺族対象のがんカフェも、引き続き参加者募集中です。
また、8月はお休みさせていただきますが、その次は土曜日か日曜日に開催できないかと模索中です。
詳細決まりましたら、またお知らせいたします。
タイトルから、常日頃から関心あるジェンダーの問題かなと思って読んだら、そこから始まる、モヤモヤの言語化の話に共感。
姉のおさがりの赤いカーディガンを学校に着ていったら、男性の先生に「男のくせに赤いカーディガンなんて、着やがって!」と怒られた‥‥‥という上司の話に、強い憤りを感じたという筆者。
これを「赤いカーディガン事件」と呼び、こう言う。
そして、僕はこの事件を通して、あることを体感的に学んだ。モヤモヤを言語化しないと、いつのまにかそれが是とされ、自分も周囲の人間もなんとなく受け入れてしまうということを。モヤモヤを言語化して、議論の俎上に乗せることが、まずは重要だということを。これが物書きとしての僕のスタンスになった。
モヤモヤを言語化しないと、なんとなく受け入れてしまう。
わたしもそれが怖いから、モヤモヤしたら、なんとか言葉にしようとするんだろうな。
反対に、モヤモヤを言葉にすることを恐る人は、それ以上それを受け入れることができなくなってしまう、その変化が怖いのかもしれない。
先週末、6月30日(土)は、ゆうあいセンター(岡山県ボランティア・NPO活動支援センター)にて、哲学カフェを開催しました。
今回のテーマはね、大阪大学の後輩の佐々木さん(前に倉敷で進行役してもらいましたね)が、「大阪と岡山、同じテーマでやってみたい!」と提案してくださったものです。
今回はテーマを提案してくれた佐々木さんは来れなかったので、このテーマに関心があって参加した人にその理由を聞いてみると‥‥‥
「仕事や学校で常に人といる家族も、ひとりになりたいと思ったりするのかなと興味をもった」という主婦の方。
「仕事を退職して基本的にひとりだから自分は『ひとりで居たい』とはわざわざ思わないけれど、『ひとりで居たい』という方がどんな状況でそう思うのか関心があって」と、いつもにも増して「他の方はどうなんだろう?」という年配の方。
などなど、他の人の話を聞きたくて参加した方が多かったように感じました。
この日も哲学カフェの準備なども手伝ってくれた気遣い上手なおなじみさんの「気を遣ってばかりだと疲れるから、ひとりになりたい」という言葉に、「気遣い上手の人でもそうなんだ」とどこかほっとしたり、
小さなお子さんを二人連れのお母さんが「全てが思った通りに進まないから、ひとりになりたい!子連れじゃカフェにも行けない」との言葉に「なるほど」と頷いたり(案の定、会場でじっとしてられなくなったちびっこちゃんたちと彼女は途中からプレイルームへ。彼女たちのおかげで、私はゆうあいセンターのプレイルームの活用法がようやくわかりました)、
「常にひとりでいたい」という人と、反対に「人と一緒にいるのが好き」という人が、偶然隣り合わせに座っていておもしろいなと思ったり、
「病気のときこそ気を遣いたくないから、ひとりでいたい」という人がいたかと思えば、「常にひとりでいたい」派の人が「病気のときだけは誰かにいてほしい」と言ったり、
同調圧力への違和感、「ひとりカラオケ、ひとり旅は、あり?」などなど‥‥‥
序盤は、それぞれの暮らしに密着した声がたくさん聞けました。
しかし対話が進むにつれ、話題は身近な事柄から、「人間とは?」「社会とは?」という根本的な問いに関する発言が増えていきます。
中学生お嬢さんと一緒に参加された方の、「人間は基本的にひとりだと思う。人といるのも、あくまで自分のため」という主張(「家族の前でそれを言い切れるってすごいな〜。かえって、家族を信頼していないとできない発言だな」と感心してしまいました)。
そして、それに対する「でも、赤ちゃんが高いところから落ちそうになっていら、思わず助けてしまいませんか?自分のためが基本ということはないと思う」という反論。
まさか、このテーマで、性善説(人間は基本的に善であるという説)vs.性悪説(人間派基本的に悪であるという説。今回の場合の悪は自己中のことかな?)の議論が聞けるとは!
さらに休憩後には、
「日本でも西洋でも『個人individual』という観念がなかった時代がある。『個人』は、in-dividualな、つまり、それ以上分けることができない単位だと言われているけど、本当にそうだろうか?」、「わたしたちがひとりと思っているときにも、体内に細菌を飼っているし、本当の『ひとり』ではないかもしれない」と「ひとり(個人)」という単位を疑う説が出てきたり、
「ひとりで居たいと思えるのは、現代だからでは? 原始時代だったら、ひとりでは生きていけないだろう」という指摘から、原始時代の社会や人間関係のあり方と、現代の社会や人間関係のあり方についての考察が展開されたり。
途中、話が難しいところもあり全部が理解できたわけではありませんが‥‥‥こういうふうに、一つのテーマをめぐって、身近でミクロな話題から、「個人とは?」「人間とは?」「社会とは?」とマクロな考察まで話せるのが哲学カフェの醍醐味のひとつ。
‥‥‥と私は思っているのですが、ここで、ちょっとした事件が起こりました。
それまで黙って、みんなの話を聞いていたある参加者が、「そんな話してなにが面白いん!?」と言い出したのです。
何が不満なのか聞いてみると、みなさんの発言が次の人に問いかけるようになっていないので、あちこちに飛んだりブツ切れになっているのが、不満なご様子。
10分ほど、対話の進行の仕方や発言の仕方についてのやりとりが続きました。
「考えずに次々つなごう!」という言葉に、その場でもお伝えしましたが、「考えることを止められたら、哲学できないよ〜」と、哲学カフェを続けられるかどうか、心臓バクバクでした。
しかし10分後、他の参加者のみなさんも哲学カフェの楽しみ方を話してくださったり、彼の関心を引き出すのに協力してくださったおかげで、なんとか、テーマについての対話を再開することに成功。
その人が気になっていたという、「以前はスケジュールが埋まっていないと不安で人とたくさん約束していたけど、最近は、ひとりになって自分自身と向き合う時間を大事にしている」という方への質問から、なぜひとりでいる時間を大切にするのか、「ひとりでいたい」という言葉の奥にある想いについて考えることができました。
そのなかから出てきた、「いつも誰かといて周りに人がいると、自分がどんな人間がわからなくなってしまいそうで怖い」という言葉が、とても印象に残っています。
それに共感すると同時に、私は自分が病気で寝込んでしまったときに、「かといって、人との交流が全く失われてしまうのも、この社会から自分という存在が消えてしまいそうで怖い」と感じたことを思い出しました。
「常にひとりでいたい」という人も誰かといたいときがあり、
「人といるのが大好き」な人も他者に気兼ねなく過ごしたいときもあり。
そのグラデーションの自分が求めるバランスはどこなのか、知っておきたいな。
そんなわけで、テーマについても、哲学カフェについても、たくさんのことを感じ考える哲学カフェでした。
最後に、ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。
途中、テーマについての対話が中断してしまい、申し訳ありませんでした。
対話のやり方について途中で質問や提案が出るのは決して悪いことではありません。
が、今回は、そこそこ哲学カフェ経験のあるわたしも心臓がバクバクしたぐらいなので、不安に感じた方もいらっしゃるだろうと思います。
わたしの哲学カフェの説明が不十分だったのか、途中の進行役としての対応が適切だったのかと、考えさせられる出来事でした。
また同時に、やはり、参加者のみなさんのご協力と信頼なくしては、哲学カフェは成り立たないのだと実感させられる出来事でした。
進行役として最善を尽くすべく精進してまいりますので、今後もご理解・ご協力のほどよろしくお願いいたします。